イベント2
唐突に、視界がブレた。と、同時、獣の咆哮が鳴り響いた。
そこでやっと僕は我に返った。
『しまった。そういえばあの狼、もう一体居たんだっけ』
『ですね。でも、少し距離があるようです』
じゃれるユズリをどうにか離して、一歩身を引いた……つもりだったのだが。
何故か身体を上手く支える事が出来ずに尻もちを付いた。
『どうしたのですか?』
『いや、ごめん。躓いただけ――――――』
言葉を途中で呑み込む。僕に駆け寄ろうとしたユズリまでもが、足を縺れさせ、地に手を付いたからだ。
「痛っ―――!!」
耳の奥に鋭い痛みを感じる。
『これは、もしかして……』
『何です?』
『アイラ。君、狼は特殊な空間認識能力を持っているって言ったよな?』
『はい。あくまで可能性ですが』
『いや。それはたぶん、合ってる。さっきのユズリの戦闘と、今の状況からして、そうとしか考えられない』
『? どういう事です?』
僕はフラつきながらも、ユズリを抱き起こす。
『超音波だよ。さっきの戦闘で、ユズリは狼の背後に回り込んだ。でも、あの獣は顔が無いにも関わらず、すぐにユズリの位置を把握していた。あの外観からして目以外に赤外線認識が装着されているとも思えない。まして匂いなんて位置の把握が不確定に過ぎる。ユズリが移動したのも風上だったし。なら、残るは、』
『音、ですか。エコーですね。反響を利用して地形を把握するという』
『そう。おかしいと思ったんだ。何故敵は狼が二体、コウモリが一体なのか。たぶん、あのコウモリが司令塔なんだ。あの小さな体で逃げ回り、超音波を発する。それを受け取った狼は周囲の空間を知覚し、さらに超音波を強くすれば、現在のように僕達の身体機能に影響を与えられる』
『なるほど。そういえば今日の対戦相手はアルナイン社。ナビゲーション開発のプロです』
『うん。しかも、こっちが人体だとわかって、対策も練って来ている。やる気満々だよ』
『………!? 待って下さい、シユル! 相手が常にこの会場丸ごとの地形を把握しているとなると、先の狼の鳴き声は!?』
『! そうか! 雪菜が危ない!』
僕らは事の重大さにようやく気付いた。狼が僕らの近くにいないということは、向かう先はただ一つだ。雪菜は上手く隠れているつもりでも、今回の場合、見つかってしまう確率は非常に高い。いや、むしろ、見つかったからこそ先程の咆哮があったと考えるべきだ。
結論が出た瞬間、焦りを憶え、駆けだそうとするが、超音波の影響で足をまた縺れさせる。
「エムス!」
戦闘の疲労と、超音波の影響もあるだろう、ややぐったりとしたユズリをその肩に持ち上げたゴーレムに声を掛ける。
「僕達を急いで雪菜のとこまで連れて行ってくれ! 狼の鳴き声がした方向にいるはずだ!」
僕の様子から何事かを察してくれたエムスは深く頷いた。
「御意」
両肩に二人の人間を載せたエムスが森の中を駆け巡った。
雪菜を探し始めて数分後、僕は自分のとった行動を後悔する事になる。
しかし、時すでに遅く、待ち伏せしていた狼に、僕らは背後から襲われることになった。
「しまっ―――!!!」
血のように赤い獣の舌が見えて、走馬灯が垣間見えそうになった瞬間、
「むんっ!」
エムスの黄褐色の腕が僕らを守った。
だが、すぐに角ばった腕から火花が飛び散り始める。ハンマーになった時のエムスの強度は狼を遥かに上回るが、ゴーレム時の彼は内部が精密機械になっているため、獣の攻撃に長時間耐えることは不可能だった。
ものの数秒で、エムスの腕は喰い千切られる。
「うぬぅ!」
呻きながら半歩後ずさるゴーレム。機械といっても人工知能にはしっかりとした痛覚がある。とっさに態勢を立て直すのは無理だ。
さらに、追い打ちをかけようと、獣が足に力を溜める。
バチンッ!
不意に、斜め後方から何かが弾けるような音が響いた。
次の瞬間、今にも飛び出さんとしていた狼がバランスを崩してよろめく。
そして、重量のある音を鳴らして地面に倒れる。見ると、前足の一本が完膚なきまでに破壊されていた。
『何だ!?』
『わかりません。ですがシユル、今がチャンスです!』
アイラの言葉に小さく頷く。
何が起きたのか、瞬時に把握出来ていない僕だったが、どちらにせよ、狼を倒すチャンスが巡って来たという事実に変わりは無い。こいつを倒してしまえば、コウモリの超音波がどれ程厄介だとしても、さして脅威にはならない。あの数十センチの体長でこちらに致命的なダメージを与えられるとは思えないからだ。
まるで、地球が揺りかごに載せられているかのように、身体も、視界も上下左右にブレていたが、転ばないように早足で狼に近づく。
巨獣の目前に立った時にはすでに、そいつの足は半分ほど修復されていた。肉体を再構築出来るだけの材料があれば、マシンはエイクズで何回でも修復可能なのだ。といってもこの場合、獣が予備のパーツを仕込んでいるようにも見えない。恐らく他の部位のパーツを削って、足に回しているのだろう。
まぁ、今更遅いけど。僕は針状になったアイラを両手で強く握り、振り下ろす。
想像よりも容易く、針は再生中の前足を貫いた。
と、同時、僕が針を刺すのを待っていたかのように獣が暴れ出す。冷や汗を盛大に流しながら、鋭く尖った牙を紙一重でかわす。だが、次の瞬間、まだ無傷な方の前足が僕を横から捉え、プラスチックのボールのように吹き飛ばした。
木に身体を打ちつけられ、地面へと落ちる。
「し~う~!!!」
ユズリの声が聞こえて、目だけを動かすと、今にも泣き出しそうな顔をした少女がこちらに向かっていた。超音波の影響で何度も転ぶ彼女はあまりに無防備で、無慈悲な獣がその姿を見逃すはずが無かった。
完全再生とはいかないまでも、立ち上がった狼はユズリに狙いを定め、腰を落とす。
『アイ、ラ………』
全身の痛みが思考すらも制限する。
『何でしょう?』
『首尾は、どうだ……?』
『万全です。いつでもやれますよ』
『よし。じゃあ、やれ』
『了解です!』
アイラの声はどこか弾んでいた。ようやく自分も活躍できると、喜んでいるのだろうか。少しぐらい僕の心配もして欲しいものだが。
『インタラプト完了。オペレーションエクセプションにより対象の動作を遅延します』
数秒後。
「し~う~!」
僕の身体をユサユサと揺らす少女の姿が隣にあった。
「おう、あひ、どぅふ、いてっ、やめ、死ぬ、ぐふっ、死んだ」
僕は傷に塩を塗られ、トドメを刺されたような気分だった。
巨獣は静止していた。
アイラによって、動作制御するコンピュータがフリーズさせられたのだ。これが、あのチンケな針、アイラを変換する事によって生まれた武器の効果だった。
アイラは研究所内の人工知能の中で最も優秀なハッカーだ。―――だから、皆、僕よりもアイラの方に敬意を払う―――。僕が造った針は、狼の身体に刺さった瞬間、先端から液状化していく。その液体はアイラの意識を含んだエイクズの一種であり、相手の内部に潜り込んで、メインコンピュータをハック、もしくは物理的に破壊するのだ。
などと、説明している間にも僕の意識は遠退きつつある訳で―――と、不意に、ユズリの背後の木からドサッと何かが落ちた。僕を揺さぶる少女の手が止まる。助かった。
「チッ。何なんだよ、これ。フラフラする」
木から落ちて尻餅をついていたのは雪菜だった。その右手には黒い狙撃銃が。しかし、心なしか、銃身が少し歪んでいるような気がする。
僕の視線に気付いたのか、雪菜は狙撃銃を持ち上げ、
「ああ、これか。発射の熱で銃身が少し曲がっただけだ。すぐ直せる。けど、連射は無理そうだ」
銃身が歪むほどの威力って………君、そんなの持ってて大丈夫なの?
「それよりお前、まんまと敵の罠に嵌りやがって。情けないな」
ムッ。なんだと。
「木の上で震えてるよりはマシだと思うけどね」
「あん? あたしがあいつの足を撃たなきゃお前、その程度の怪我じゃ済まなかったんだぞ?」
「僕らが来なきゃ、そうなってたのは君の方だったろ。あんな近くから撃っといて、急所はずしてる癖に威張らないで欲しいね」
「なっ! てめぇ、調子に乗んじゃ――――――」
「あうあ!」
僕と雪菜の間にユズリが割って入った。というか両者とも、少女に胸倉掴まれて宙ぶらりんだった。
「や~や~!」
どうやら口喧嘩の仲裁に入ったらしいユズリは、涙目で僕らを放り投げた。
「だはっ」「いてっ」
地面に転がった僕は、ユズリの力を弱めてくれたであろう、超音波に深々と感謝した。
のも束の間―――。
キィィイイイイン!!!
「うぐっ!」「いっ!」「あう!」
三人同時に耳を抑えて地面に蹲る。超音波がさらに強くなった。
まるで枷を付けられたかのように身体が重く、急激な嘔吐感に苛まれる。
『これはさすがに、キツ過ぎる』
『どうやら相手も、味方がやられたことに気付いたようですね。これほどの機能をいつまでも継続出来るとは思えませんが………』
『向こうが電池切れになる前に、僕達の方が気絶しそうだ』
うっ……おげろぉ。もどしちゃったよ。
「くそっ。撃ち殺してやる」
雪菜が修理した銃身を持ち上げる。
「相手の居場所もわからないのに、どうする気だ?」
「うるせぇ。黙ってろ!」
つまり、無策ということか。
といっても、僕にだって何かがある訳ではない。
どうする? どうすればいい? 見えない相手を見つける方法。この会場は広い。闇雲に走り回っても見つけられるはずがない。
相手には音しか無いのだ。たったそれだけ。これだけの音を発している以上、機動力だって大したこと無い筈だ。下手すればどっかの木に留まっているだけ。
その姿さえ見えれば。あのコウモリの羽だけでも良い。見えさえすれば………。
見える?
『アイラ。ユズリは脳の運動野が他人よりも広いから、あれだけ怪力になった。そうだな?』
『? そうですが?』
『雪菜は嗅覚と味覚を削って、触覚と視覚を強化しているから、正確な射撃が出来る』
『今更何ですか? そんなこと当たり前………まさか!?』
『そうだ。僕の知覚全てをカットして、視覚野に変換してくれ』
そうだ。至極単純な理論だ。
『見えないなら。見えるようにすればいい』
『不可能です! ユズリも雪菜も、脳の機能が一部分に特化しているのは生まれつきなのです! 後天的に無理やりなど、リスクが高すぎます!』
『シグナルロックだって、同じようなものじゃないか』
『全然違います! あれは単に脳の機能を休眠させているだけ。機能を変換するのとは訳が違います!』
『………アイラ。大丈夫だよ』
『何を根拠に――――――』
偶にはらしくないことを言ってみよう。
『僕を信じて』
相棒が息を呑んだのがわかった。なんとも、僕には似つかわしく無い言葉だった。自分を一番信じていないのが他ならぬ自分自身の癖に、他人を信用させようなど、浅はかにも程がある。
けど、信じてみたくなったのだ。僕よりも一回り小さな女の子が、僕のために力を尽くしてくれた。それだけの価値が僕にはあるのだと、信じたい。僕が僕を信用しなくとも、価値を見出せなくとも、僕を信用してくれた人の分だけは、自信を持ちたい。
いや、自信を持つべきなのだ。
『……シユル。あなたはなぜ、この実験にそれほど真剣なのです? そんなに無理をしなくとも、降参すれば良いではないですか』
『降参、か。アイラ、君は白旗を誰に向かって挙げるつもりなんだ?』
『誰って……?』
『審判なんてこの場には存在しない。居るのは強化ガラス越しの研究者達だけだ』
『だからといって――――――』
『いっちゃんが用意していると言っていた医療チームも、医師免許持ちの研究者だった』
僕はこの会場に入った時のイメージを掘り返す。
他の研究者達を差し置いて、最前線に陣を置いていた、防護服なしの白衣を着た人間達。
『ここは戦闘の場じゃない。研究発表の場だ』
それが何より、恐ろしい。
『勝利条件は相手チームの破壊、戦闘不能だ。わかるだろ? 医療チームは僕達が重傷になることを望んでいる』
『そんな、まさか………』
『それが、僕らの商品としての価値、なんだろ?』
自嘲的な笑みを浮かべた僕に対し、悲しげな思念が返ってきた。
『惟良が言っていた商品というのは人工知能の事です。あなたではありません』
お前こそ、悲しい事言うなよ。
『同じだよ。何が違うのか、僕にはわからないな』
僕の言葉を聞いたアイラの心情は、いまいち理解出来なかった。思考を通わせても、相手の全てがわかる訳ではない。複雑に絡み合った心の糸は、暖かさと冷たさが混じり合って、触れればすぐに千切れてしまいそうなほど、儚かった。
数秒、数分にも感じられた間を置いて、アイラは口を開く。
『わかりました。あなたを信じます。シユル』
伝わってくるアイラの思念は少し複雑だった。本当は、未だ迷っているのだろう。
『ありがとう、アイラ』
『お礼は勝った後に言ってください』
『ハハ。そうだね』
『いきますよ? 私が失敗しないように祈っておいてください』
『心配ないよ。いつだって君を信用してる』
『……調子の良い事を』
おっ、アイラがちょっと照れてる。これはなかなか珍しい。
照れを隠すかのように、アイラは言葉を紡いだ。
『『共感覚』起動します』
彼女の様子に心の中で小さく笑った瞬間、全てがブラックアウトした。
何も感じない、何も見えない、聞こえない、匂わない、味わえない。全てが無だった。
だが、そう感じたのはほんの一瞬の事。
次の瞬間、まるでシェーカーの中で振り回されているような強烈な目眩と、嘔吐感を感じた。
「がっ、うぇ、おぅえ!」
本日二度目の嘔吐。喉が焼けつくように痛んだ。
誰かが駆け寄ってくる気配だけがあったが、音も、地面を触る感触すらなかった。
吐き出すものが何も無くなって、顔を上げる。
赤い、世界だった。まるで世界が血を吹き上げているかの如く、赤く、紅い。
新緑の森が一転して血の海と化していた。
『シユル! 大丈夫ですか!?』
『なんとかね。ただ、視界が真っ赤だ』
『視界が? それは……!』
『うん。たぶん、音が僕の目には「見えている」。つまり……』
赤ければ赤いほど……。
「雪菜。こっちに来てくれ」
と言ったつもりだったが、自分の声すら耳には入ってこなかった。ただ、薄い緑の何かが周囲に広がっただけだった。
それでも雪菜はこちらの意図を理解してくれたようで、ゆっくりと歩いて来た。非常に嫌そうな顔をしているが。
だが、雪菜の心情など考慮している暇は無い。僕の身体感覚は、いつ倒れてもおかしく無いほどに曖昧だった。
問答無用で雪菜の背後に回り込み、身体を抱きかかえるようにして、彼女の狙撃銃を掴む。
一瞬の間があり、雪菜が暴れ出した。
『よせ。暴れるな』
『な、何すんだお前! 勝手に人の頭ん中に入ってくんな! つか、離せ! 死ね! 死ね!』
人工知能持ちの僕らは、相手に触れることで、正確には人工知能同士を触れさせることで思考をある程度通わせる事が出来る。この場合、僕の持つ針と、雪菜の狙撃銃が触れることで可能となる。
『僕だって君に近づきたくなんて無いよ。でも、仕方ない。僕はあのコウモリの位置がわかっている。照準を合わせるから、銃を作動させて引き金を引いてくれ。それは君にしか出来ない』
『! お前、なんで!?』
『説明は後で。こっちだ』
僕は雪菜の身体を半歩回転させて、しゃがませる。木々の奥に見えるのは純粋なる朱。血の色とすら呼べない、不純物のない紅の闇。影すら焼き尽くす程、熱を凝縮させた光。
『ここだよ。間違いない。でも、音が強すぎて正確な位置がわからない。数センチずれてるかも………』
『問題ねぇよ。多少のズレで破壊できなくなるほど、アリアは柔じゃない』
『頼もしいね』
『ふんっ。当たり前だ』
とんっ、と身体が少し揺れた。感触が感じられなかったため、少し驚いたが、何の事はない、後ろを振り向けばユズリが僕の背中を押していた。眉を寄せて、唇を尖らせた少女。どうやら拗ねているようだった。別に、仲間外れにしたつもりは無いのだが。
『おい! 撃つぞ!』
雪菜の言葉を聞いて、慌ててユズリにしゃがむように指示する。少女は嬉しそうに屈んで、僕の背中を掴んだ。
何とも奇妙な形で三人が並んでいた。でも、どこか心地良いバランスが取れているような気がした。
『行くぞ。痺れる準備はいいか?』
『え? 痺れる?』
『アリア。チャージ!』
雪菜が言った瞬間、エイクズの動きが活発になる気配がした。狙撃銃を中心にバチバチと光が爆ぜる。静電気で雪菜の髪が逆立ち、僕の頬を撫ぜる。そこで、僕はシナスタジアを解除する。もう場所はわかった。少しでもふらついた身体への負担を和らげようと思ったのだ。
しかしその瞬間、雪菜の髪が鼻筋を掠めた。
『あっ、良い匂い』
……しまった。言っちゃった。
『お、お、お、お前! な、何嗅いでんだよ!!!』
『い、いや、落ち着いて』
『や、やっぱ離せ! いやだ! 近づくな! 変態!』
『チャージ完了。発射可能です』
『雪菜、撃て!』
『いやだぁああああああ! 離せぇええええええ!』
やばい。この人、もう発狂寸前だ。僕は無理やり雪菜の指に手を重ね、
『ひぃ!』
引き金を引いた。
耳を劈く破砕音。
一回目の射撃よりも明らかに高威力な狙撃だった。
銃弾の軌道など見えるはずも無く、ただ射線上にある木だけが歪な形に粉砕されていく。
そして、減り込む肘。僕の顔面に減り込む肘。
雪菜の悲痛な叫びと共に、僕の意識は無限の彼方へと遠ざかって行った。