〈1〉
城の中は現在、大騒ぎであった。真夜中であるというのに、明かりという明かりが点けられ、非番であった衛士や召使などまでたたき起こされて、皆が総出で城中を駆け回っていた。
「お嬢様が逃げたぞー!」
「ハラリス様が、またお逃げなさったー!」
城の中にある、とある一室。その内装はまさしく豪華絢爛。如何にも【お姫様】が住んでいそうな煌びやかな部屋であったが、ドアは荒々しく開かれ、上げっぱなしの窓からは冷たい夜風が流れ込んでいる。そこから伸びる一本のロープがここで起こった事を何よりも如実に表していた。その中を一際豪華な衣装に身を包んだ壮年の男が歩いている。周りには老年の執事らしき人物や、屈強な体格をした兵士などを付き従えており、恐らくその男がこの城の城主である事を予覚させた。
「婚礼間近というのに、ハラリス様のお転婆は、幼少の頃より少しも変わっておりませんな」
老年の男はなるべく平静な態度でそう言うが、内心かなり焦っている。目の前に立つ己の主人が、いつ爆発するか分かったものではなかったからだ。
「我がライトドット家の栄光ある歴史に、これ以上泥を塗るつもりなら……」
その壮年の男は肩を震わしながら、手に持つ紙切れを焼き切る程の眼光で見つめていた。
そこには細く上品な文字で、丁寧に、こう書かれていた。
『ハルは家出いたいします。探さないで下さい。』
『追伸――――、ざまみ晒せ、糞ジジイ!』
「娘を探し出せ! 腕の一本ぶった切っても良い! 必ず連れて帰って来い!!」
男は如何にも偉そうな口調で怒鳴りたてた。執事はおろおろとしながらハンカチを手の中で何度も何度も畳み直している。兵士たちは城門を開き、馬を走らせる。使用人たちもランプを片手に屋敷の外を歩き回っていた。
部屋の中には以前として怒鳴り散らす男とそれをなだめる老人の姿があったが、実はもう一人。その屋根裏にて、一部始終を監視する影があった。
長く鋭い銀の髪。棘の冠のような装飾品を被った、青年の女性。薄く滑らかな衣服に身を包むその姿は薄暗いその場所にあって、まるで自ら光を放つように輝いて見えた。
彼女こそ、今、城内を騒がせているお嬢様こと、『ハラリス』である。
「そんなバカ正直に、城を出る訳ないじゃない」
そう言うと、ハラリスは狭い中で器用に身体をよじり、暗い屋根裏を慣れた手つきで進んでいった。
それから暫くして、誰もいなくなった厨房の天井の隅がカパリと空き、いそいそと二本の足が飛び出してきた。捲れ上がった裾から見えるその足は白磁の如く思われたが、素足で調理場に降り立つその姿には、美しさや優雅さは微塵も無かった。そうして、ハラリスは遊び慣れた木から飛び降りる町娘の様にヒラリと舞い降りる。ヒョイと入口から顔を出し辺りを見回す。誰もいない事を確認すると、なるべく音を立てないよう、足早にその場を去っていった。
そうして誰にも見つかる事なく、ハラリスはとある部屋の前にやって来た。そこは使用人たちも知らないような場所。城の構造的に、知らなければ辿り着けないような場所だった。
まるで、そこを隠すために城が出来たような、そんな場所だった。
「まさか、こんな時が来るとはね……」
城内の清潔で神聖な雰囲気では無く、おどろおどろしい、重厚感のある扉。
そこにハラリスが手をかけた時、そっと彼女の肩に誰かの手が置かれた。
「ッ!? 誰か!?」
召使に見付かったのかと思い、ハラリスは慌てて振り返る。しかし、そこにいたのは彼女の予想とは大きく違うモノだった。
「ハラリス様。やっと見つけましたよ」
「あんた、カムイ……! なんでここに!?」
そこにいたのは頭の上から爪の先まで、一際派手な衣服と装飾品で身を固めた長身の男だった。生物的な紫や緑のその色合いは趣味が良いとは言い難かったが、その男の放つどことない雰囲気には、何故かそれが似合っていた。
「あんた、私の【痕跡】を辿ってきたわね!」
「殆ど偶然でしたがね……。さ、戻りましょう姫様。お父上も心配しておられます」
そう言うと、カムイと呼ばれたその男はハラリスの細い手首を掴み上げる。
「はっ、あの男が私の心配なんかするわけないでしょ! 聞いたわよ。腕一本は切ってもいいんですって? あんたも私の腕を切りに来たのかしら?」
「お父上が心配しておられるのは、婚礼の事にございます。姫様とて、ライトドット家のご令嬢。お父上はともかく、この家の事が嫌いな訳では無いのでしょう?」
カムイは諭す様な静かで優しい口調で話していたが、手首を掴むその白い手袋は言葉よりも如実にその意思を表していた。
「ふん。だから私は逃げてんの! そりゃ、私がいなけりゃこの家にも迷惑がかかるんでしょうけどね、それとこれとは別よ! 誰が見たことも無い男となんか結婚するもんですか!」
そう言ってハラリスはカムイの腕を振り解き、その勢いのまま後ろの扉を叩き開けた。
中から酷く鼻奥をつく異臭と、思わず目を閉じてしまう程の悪臭が雪崩込んでくる。
しかし、カムイの目は見開いていた。それ以上に、特筆すべきものがそこにはあったのだ。
「これは……、転移門でございますか?」
そこにあったものは、青白い光を放ち、静かに回転を続ける魔法陣。部屋の地面いっぱいに刻まれた刻印をなぞり浮き出る、生きた魔法の産物であった。
「これは一体……? 何故、ハラリス様はこんなものを?」
「……昔、爺やが話してくれたの。この城には誰も入っちゃいけない部屋があって、そこには地獄と繋がる転移門がずっと生きたまま動いてるって……。そこから悪霊が毎夜現れては、悪い子はいないか城の中を探し回ってるんだってね」
「……まるで、街の子供が聞かされそうな、怪談ですね」
それを聞いたハラリスの顔が、クスっ、と和らぐ。
「全くよね。まぁ爺やからすれば、私が夜な夜な城中を探検して回るのを止めたかったんでしょうけど。でもそれを聞いて私、『その部屋を絶対に見つけてやるんだ』って、もっと活発になっちゃってね」
「姫様のお転婆は筋金入ですからね。自分はお仕えしたその日にはもう悟っていましたが」
「……それで、半年ぐらい経った頃かな。偶然壁に寄りかかった時、ここに繋がる隠し扉を見つけたってわけ。とは言っても、城の図面とか立地条件から、当たりはついてたんだけどね」
「姫様は本当に……。極、限られた分野のおける能力に非凡な才をお持ちです」
カムイは如何にもやれやれといった素振りを見せる。それを見たハラリスの顔がムッと膨れ上がった。
「どういう意味よそれ。カムイ的には、主は貞淑なお嬢様の方が良かったのかしら?」
「どうでしょうね。……でも、退屈しなかったのは事実です」
それから少し、沈黙が流れた。
窓も無い石畳のその部屋で、二人の男女を照らす青白い光は、どこまでも詩的であった。
「それで、どうなさるおつもりですか?」
カムイは静かに、主の心を問うた。
「転移門は最高位の魔法陣です。それがこのような場所にあって、人知れす動かされ続ける理由。測り兼ねます。行き先も解らぬというのに、どうなさるおつもりですか?」
その問に、ハラリスの口元はまたもや笑みを浮かべる。しかしその瞳の中までは、カムイからは見えなかった。
「良いのよ。これが私の最後の冒険。どうせ結婚したら、城から出られやしないんだから」
「ハラリス様……」
「分かってる。何時かは私だって、お嫁に行かなきゃならない。だからこれは、お転婆娘の最後の我侭なのよ。帰ってきたら手足落として、綺麗さっぱり、お嫁に行くわ」
その時になってふと見えたハラリスの顔が、カムイにはどこまでも爽やかに見えた。ハラリスはカツカツと歩み出て、魔法陣の上まで進む。
「どうするカムイ? やっぱりここで腕を落として、連れ戻す? それでも良いわ、あんたなら……」
そう言ってハラリスは振り向く。カムイもまた、顔を和らげ答えた。
「我が命は仕えた時より主のもの。あなたがそう望むなら、そう命ずれば良いのです」
その言葉に、ハラリスは微笑んだ。
「ならば命ずる! カムイよ、私と来い!」
そうして手を差し伸べる。
カムイもまた、陣の上まで歩を進め、その手を取り跪く。
「我が命は永久の果てまで主とともに!」
その言葉を皮切りに、陣の回転は勢いを増し、その光もまた、部屋を満たしていく。
「例えこの身が、尽きるとも……」
「格好つけすぎよ、馬鹿者め……」
部屋を満たした光が流れ星のように消え去ると、二人の姿もまた、夢のように消えていた。