ばいばい!
また、夢を見た。
長い黒髪を風に遊ばせて笑う彼女と並んで歩いている。白いワンピースにその艶やかな黒はとてもよく映えて、言いようもないほど綺麗だった。周りの景色に目をやれば、色違いのタイルを敷き詰めたようなコンクリートの道を青々と繁った緑が彩っていて、幼稚園のときに遠足で行った公園を思い出す。何の話をしていたかは覚えていないけれど、ほとんど彼女が喋っていた。見ているだけでこちらの気分も明るくさせるくらいに顔をほころばせて話す彼女の声が聞こえないのは、いつものことながらもどかしい。
そこまで書いて、僕はノートを閉じた。
「んーっ」
椅子に座ったまま大きく体を反らすと、窓の向こうで逆さまになった街が見える。太陽のまだ眠たげな光に照らされ、思わず目をつむると、瞼の裏に思い浮かぶのはやはり夢に出てくる少女の顔。その像はすでに首から下はもやがかかったようにぼんやりしている。思い出す度に夢の記憶が薄れていくのは自明の理だ。
目の前のノートには、彼女との夢が綴られている。放っておけば、夢で会った少女のことなんてすぐに忘れてしまうから、それが嫌で書き始めたものだ。しかし、このノートに書かれているのは彼女自身でなく、僕の言葉によって描写された彼女でしかない。読み返してみても、彼女と話しているときのような心地よさは微塵もなく、むしろここに書かれているのは僕が創り出した出来損ないの妄想のようで、ひどく不快だ。けれど書き留めておかなければ彼女は日々にさらわれてしまうから、だから彼女の夢を見た日はいつも、朝一番に机に向かっている。決して触れることのできない彼女を、せめて記憶にだけは留めるように。この感情を、僕はとっくの昔に自覚している。
僕は夢の中でしか会えない少女に恋しているんだ。
リビングのある一階に降りてゆくと、食欲をそそる朝食の匂いとテレビの音に迎えられる。まっすぐテーブルに向かうと、ちょうど台所で弁当を完成させた兄さんが振り向くところだった。
「おう、おはよう、和希。ちょうどいいところに降りてきたな」
「おはよう兄さん。僕に何か用事?」
「いや、こっちの都合だ」
そう言って兄さんが肩に掛けたカバンはいつものやる気なさそうにペタンとした姿ではなく、珍しく中身を膨らませていた。
「今日はゼミの発表があるんだ。それの打ち合わせがあるから、俺はもう行かなきゃならない」
「ああ、そうなんだ。頑張ってね」
「おう。そういうことだから行くとき、戸締まりはしっかりしろよ。んじゃ、いってくる」
「うん。いってらっしゃい」
僕の見送りの言葉を聞くと、兄さんは軽く手をあげて出て行った。そんなに急いでいるなら朝食は自分でなんとかしろとでも言っておけばいいのに、面倒見のいい兄さんだ。僕はエンターテイメント特集を始めたテレビを眺めながら、まだ湯気の立つ朝食に箸をつけた。
兄さんが大学に行くと、家には僕一人になってしまう。父さんは単身赴任で留守だし、母さんは僕が物心つく前に事故に遭って亡くなった。普段は兄さんが明るく振る舞ってくれるから意識しないけれど、たまに一人で家にいるときは少し寂しさを感じてしまう。最近見るようになったあの夢も、僕のこんな気持ちが生み出したものではないか、と思うこともある。
僕が登校するのは、だいたい始業の三十分くらい前だ。電車が遅れるのが怖いから早めに来ているだけで、休み時間に談笑する友達もいない僕は、カバンの中身を机に一通り突っ込んでしまうと寝ることにしている。手持ちぶさたでしょうがない、というのもあるけれど、ポーズをしているうちに本当に眠気が来るのだから不思議なものだ。
「おっは」
「あ、おはよう、佐倉さん」
しかし、テニス部の朝練がある月曜日と水曜日だけは、彼女が話しかけてきてくれる。
「ねえねえ、今週のクイーン読んだ?」
「いや、まだだけど……」
「うっそ、早く読みなって。ていうか今あるから読みなさい」
挨拶もそこそこに、がさごそとリュックサックを探り始めた彼女、佐倉宮乃さんとは今月の席替えで前後になったとき、机に入れっぱなしだった週刊誌を目ざとく見つけられたことがきっかけで、会話を交わすようになった。朝練が終わるとそのまま教室にやってくる彼女は、今まで退屈で仕方なかったらしく、いつも早めに登校する僕は格好の喋り相手だったらしい。もともと彼女は誰とでも仲良くなってしまう性質を持っているようだし、そのうえに共通の話題を発見したものだから、口下手な僕もあまり構えずに話すことができる数少ない人物だ。
「はい、コレ」
「あ、うん、ありがとう」
彼女が満面の笑顔で差し出してくるものだから、僕は流されるまま雑誌を受け取って、彼女のお気に入りの漫画のページに目を落とした。
「みやっち、おはよー」
「おっはー」
「こないだ言ってたスイーツ昨日食べてきたんだけど、すっごくおいしかったよー!」
そうしていると、ちょうど椅子に座った僕の横に女子が立ち止まって、佐倉さんと話し出す。佐倉さんが好きな漫画は読み終わったけど、僕には女子同士の会話に話って入る勇気はとても無くて、こっそり彼女の机の隅に雑誌を返すしかなかった。
その日、僕はまたあの夢を見ていた。彼女の背景には青い水槽の中を自由に泳ぐ魚たち。今日は水族館にいるようだ。彼女が夢に出てくるときは先日見たあの公園が舞台であることが多いのだけど、たまにこうして違う場所にいることもある。彼女の声は依然聞こえないけれど、彼女の柔らかな微笑みを見ているだけで、胸が安心感で満ちていく。
「かずき、和希! ……ん? おお、起きたか」
気がつくとあたりは見慣れた自室。目の前にはちょっとびっくりしたような兄さんの顔があった。
「珍しいな、お前が寝坊なんて。夜更かしでもしたのか?」
歯を見せて笑う兄さんだけど、こちらは図星を突かれて俯くしかない。昨日はなぜか、中学校時代の恥ずかしい出来事が次々と頭に思い浮かんできてしまってなかなか寝つけなかったのだ。
「それとも……母さんのこと、思い出したのか?」
急に真面目な顔になって、そんなことを言う兄さん。
「な、なんでそうなるのさ、ほとんど覚えてもいないのに」
たとえ僕が寂しさを覚えたって、それで母さんが恋しくなったって、兄さんのせいじゃない。兄さんの表情に自らを責めるような色が見えて、少しむきになって否定した。
「だってお前、さっき……」
けれど兄さんを気遣う余裕も、すぐに無くなった。
「母さんって、呼んでたから」
一瞬、思考が空転した。
「僕は……え?」
「寝言でさ。めちゃくちゃ幸せそうなカオしてるから、起こすのも躊躇うくらいで……って、そうだ、お前寝坊したんだった! ほら、早く朝飯食わねえと!」
「あ、うん……」
そうして僕は気がつくと朝のニュースを眺めながら玉子焼きをかじっていて、次に気がつくと学校で授業を受けていて、夕日に目を細めると家路をたどっていた。一日中上の空でもなんとかなるものなんだな、と至極どうでもいいことを思いながら、僕は玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
火曜日以外は兄さんは僕より遅く帰ってくるから、ただいまと言うのは単に気分の問題だ。玄関にカバンを放り出したまま、僕は我ながら頼りない足取りで父さんの部屋に向かう。父さんがいる間は散らかっているけれど、単身赴任に行くとすぐ兄さんが片づけてしまうので、目的のものを探すのは難しくなかった。それは、家族のアルバム。母さんの顔も覚えていない僕にとって、夢の中の少女が母さんかどうかを確かめるにはアルバムを見るしかないのだ。果たして、ページを一つめくるだけで答えはわかった。そこにあったのは、家族全員が映った写真。小学校低学年とおぼしき兄さんの肩に両手を置いて笑う父さんがいて、その横で三歳くらいの僕が抱かれていたのは、風に揺れる長い黒髪の、白いワンピースを着た女性だった。
「かあ、さん……」
なるほど、改めて見ると写真の中で微笑む母さんはかなり若く見える。夢の中で僕と同年代くらいの少女と勘違いしたのは恐らく、それが今の僕に一番身近な世代だったから、そして僕が勝手に恋だと思い込んでしまったから。いわゆる恋は盲目、ということ。顔を覚えてもいなかった母親の姿を描き出せたのは、単純に夢の性質で……。夢の中で彼女と会う場所は、たぶん本当に行った場所なんだろう。頻繁に出てくるあの公園は家からだと電車を使わなければいけないけれど、比較的行きやすいところにある。幼稚園の遠足で行ったあの公園を僕が気に入り、何度も行きたいと母さんにせがむ様子が目に浮かぶ。
「ああ……」
写真がにじんで、僕の瞳は熱を訴えているのに、頭だけは嫌になるくらい冷え切って、現状を分析している。でももう考えることはない。結論は自動的に弾き出される。つまり、僕は、愛情に飢えたあげくに母親に恋してしまった、哀れな人間というわけだ。哀れ、というよりは滑稽、か。
「あぅ……うく……あ、ぁあ…………」
夕日が沈んで、街に夜の帳がおりても、僕は蛍光灯に照らされる部屋で一人、嗚咽を響かせていた。
それでもなんとか感情を収めて、兄さんが帰ってくる頃には平静を取り戻して迎えることができた。けれど、夜になってベッドに横になったとき、僕は不安になった。母さんには会いたいけれど、もうあの夢は見たくないというジレンマ。どちらかに決めたからといって見る夢を選べるわけではないけれど、僕はそれでも眠りに落ちるその瞬間まで迷っていた。
「あ……」
僕は歩いていた。歩こうなどと思ってもいないのに体が勝手に動く様子は、まるで自分の姿をしたロボットに乗っているかのような不思議な感覚だった。前を見ると見覚えのある色とりどりのタイルが敷き詰められた歩道。そのとき、僕の首は不意に右に向けられ、隣にいる人物を視界の中心に据えた。その笑顔は、真実を知った今でも変わらず僕に限りない安堵感を与えてくれる。
「母さん……」
明晰夢というものがある。夢の中にいながら、これは夢だと自覚できる夢。だとしたら、結局僕は願ったということだ。母さんに会うことを。意識はしっかりしているのに、母さんの声はやっぱり聞こえない。下手に言葉を話せてしまうとそこからぼろが出てしまうからだろう。これは僕が作り上げた母さんであって、母さん自身ではない。だけど構わなかった。構わないと思っていた。
「だけど、だめだ、よね」
声に出した言葉に、母さんは驚いたように口を止めた。
「いつまでも寂しがってたら、母さんも心配だよね?」
母さんは口元をゆるめたまま、僕の言葉を黙って聞いてくれている。
「だから、明日からはもう、いいんだ。夢の中でまで泣くのはっ、今日が最後……」
涙が止まらなくて、母さんの姿が見えない。最後にちゃんと、言うべきことを言わないと。それは幼かった遠い日、言えなかった言葉。永遠と思っていた日常が突然無くなって、それに為すすべもなかった僕が、唯一の抵抗として絶対に口にしなかった言葉。
「ばいばい、母さん。ずっと、だいすきだよ……」
その言葉を聞いて、母さんは僕の目の前を埋め尽くすくらい近づいた。そして、頭を撫でられる感触。
「ばいばい、和希。私もだいすきよ」
目の前の母さんの輪郭はぼんやりとした視界の中で、やがてどんどんあやふやになっていって……風に吹かれるように、消えた。
朝起きると、瞼が物理的に重かったので鏡を見てみると、泣きはらしたように赤かった。幸いにも、何回か顔を洗うとぱっと見た感じではわからない程度にまで腫れが引いたので、洗面所で一人密かに胸をなで下ろした。あんなものを兄さんに見られたら、こちらが申し訳なるくらい心配されてしまうところだし、それでなくとも、今日は僕にとって決戦にも等しい日だ。せっかく髪の毛を少しいじったりしているのに、目が腫れ上がっていては格好がつかない。
昨夜見た夢のことは、はっきり覚えているけど、日記には書くことはしなかった。そんなことをしなくても、あの日の夢はきっと忘れることはないだろうから。もう必要なくなったあのノートも捨てようと思って、改めて読んでみると、今まで書いたことは僕の見当違いだったわけで、かなり恥ずかしいシロモノだということを再確認させられたけれど、やっぱり持っておくことにした。夢の中で会った母さんはつまり、僕が記憶の奥底で覚えている母さんであり、彼女と話したその記録は、いい思い出だと思うから。
今朝、僕はいつもどおり始業の三十分前から教室にいるけれど、机に突っ伏すことはしない。でも手持ちぶさただから、携帯を無意味にいじっている。登校してからだいたい十五分ほど教室の入り口を睨んでいて、ようやく来た待ち人に声をかけた。
「あ、お、おはよう、佐倉さん」
「おっはよー、珍しいね。いつもわたしが来たら寝てるのに」
「ま、まあたまには。あ、そ、その……も、もし良ければ」
ともすれば逸らしそうになる視線を頑張って佐倉さんの眉間に固定する。
「今度の土曜、僕と、映画、観にいかないかな?」
「あー……ごめん、土曜日は部活あるから」
「あ、そう、なんだ」
現実はうまくいかないときもあるけれど、寂しさに泣かなくて済む日が来るように僕は手を伸ばす。
「だから、日曜じゃダメ?」
「えっ? あ、い、いいよ!」
差し出したこの手を握り返してくれる人たちがいれば、泣いた烏もきっとすぐに笑えるから。
いつか別れる日が来ても、過ごしたときはなくならない。君と交わした会話、あなたの笑顔の思い出は、胸の中でいつまでも輝き続ける。
お久しぶりです。
まずは、私のつたない小説を最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
今回、文学を書いたのは、特に伝えたかったことがあったからではなくて、これなら目に触れるかと思ったからです。
さらに正直に言うと、三ヶ月前から投稿しようと思って書いていた作品はとうとう書き上げることができなくて。
これは一昨日、ふと思い立って書き始めたものです(笑)
ですが、できあがったものは今の私にぴったりの作品だと自負しています。
つたない技術も含めて、これが弥塚泉の文学です。
私は趣味で書いていますから、マイペースではありますが、読者に想いを伝えられる作品を書くために、これからも試行錯誤していきます。
では、今回はこのあたりで。
どうかまた、私の作品が目に留まる幸いがありますように。
2013/3/6、弥塚泉