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通りの陰に

作者: 法橋籐士郎

A4用紙(40×40)13枚程度の短篇です。お暇なときにお読みください。

        一



 窓外は徐々に密度を増していく灰色に染まっていた。

 居間の角にはまだ新しいテレビ受像機が置かれている。去年、東京オリンピック開催に合わせ奮発した白黒テレビだが、結局使うことは殆どなく、長い間沈黙したままだった。

 私は卓袱台の前に座り新聞をめくった。流し読むうち、それが今日の朝刊だと気付いた。『サザエさん』の連載漫画が載っていたからだ。私はもう五十を過ぎたオヤジだが、この漫画はフクニチ新聞に掲載されていた頃から欠かさず読んでいる。不変的な家族の構図がよく描かれていて、この先何十年も長生きするのではないかと密かに期待していた。

 夕刊を探すのも億劫だったので、そのまま朝刊を読むことにした。だが、今朝一通り目を通しているので真新しい発見はなかなかない。ただ無聊を慰めるだけだ。

 新聞をめくる手は地方欄で止まった。とても小さな記事だが、私の目を引き付けるものがあった。

 それは昨年――一九六四年の夏、東京オリンピックで日本じゅうが熱狂する頃、福岡県北九州市、それも私の家の近辺で起きた通り魔事件についての記事だった。その事件では女性二名が殺害され、一年と数箇月が経った今でも犯人は捕まっていない。記事は被害者への追悼と目撃情報募集の旨が短い言葉で書かれていた。

 私はすぐに新聞を閉じ、煙草に火を点けた。あの事件に関して余計なことは考えたくない。我武者羅に気を紛らわせようと、私は煙草をいつもより忙しく吸った。

 紫煙が天井に昇っていく。台所から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。

 私は短くなった煙草を灰皿に押し付け、寝室に行き外套を羽織った。夕飯まではまだ時間があるだろうから少し散歩をしようと思った。

 台所に行き、妻の背に声をかける。

「ちょっと、散歩行ってくるけ」

「どこまで?」

 調理の手を一旦止め、妻が振り返った。結婚して二十五年が経ち随分と皺が増えたが、その柔和な微笑は昔と何も変わらない。

「わからんけど、すぐ帰るよ」

 はあい、と云い、妻はまたまな板に向かった。後ろに括られた髪にはいくらか白いものが混じっていた。

 沓脱ぎに行く途中、そっと娘の部屋を覗いてみた。玄関から二本の廊下が延びているが、一方が台所と私たち夫婦の寝室に繋がり、もう一方が便所、風呂場、娘の部屋などに繋がっている。私はそっと、娘の部屋の扉を開けた。

 扉の隙間から冷気が洩れ出した。廊下の電灯が部屋に線上の光を差し込んだ。

 私は音を立てぬよう静かに扉を閉めた。

 去年十八歳で会社勤めをはじめ、間もなくいなくなった娘の部屋は一年前と少しも変わっていない。妻も私も、娘が安心して帰って来られるよう、掃除のとき以外はなるべく入室しないようにしているのだ。それに、父親に勝手に部屋に這入られるのは年頃の娘としては断固止めてほしいところだろう。

 こみ上げる悲しさを押し殺すためにも、私は急いで靴を掛けた。師走の厳寒がどんな感情も攫ってくれると、私は身勝手な期待を抱いていた。

 

 寒気は臓腑にまで侵入し、北風はチクリと肌を刺す。吹き止まぬ風と冷気は確かに身を震わしめたが、だからと云って私の心情までを凍らせてくれるわけではなかった。

 外套の襟に顔を埋め、家並みに沿って路地を歩いた。この辺りは平屋の一戸建てが多く、私の家も御多分に洩れない。背の低い家々は寒さのなかで物云わずじっと凝固している。一部の家は竹垣を組んでいて、激しく風が吹き付けるたびに虎落笛が怪物の咆哮のように響く。炬燵が恋しくなるような寒さのなかを好き好んで散歩する者など、私のほかには当然見当たらない。

 行く宛てなどなかったが、結婚以来ずっと住み続けている町のことだから迷子になることは絶対にない。ただひとつ慣れないのは北九州市と云う名前だった。一昨年、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の五つの市が合併し、北九州市が発足した。東名阪の三大都市圏以外で初の政令指定都市であり、また重化学工業の更なる発展が見込めると云うことで話題を呼んでいた。私が勤めるのも市内の重化学関連の某企業で、実際五市合併以降の経営は右肩上がりだった。

 だが、合併から二年経った今でも、私は北九州市よりも小倉市の方をつい使ってしまう。私が暫く小倉市の名を使い続けていると、娘が「お父さん、今は北九州って云うんよ」と云ってからかった。「ねえお母さん」と娘が云うと、妻は「ええ。北九州市よ」と笑った。けれども私は、妻が北九州市と云うのにどこか違和感を覚えずにはいられなかった。我々は小倉市の人間だ、と私は今でも思っている。

 思考の傍ら無意識に足が向かったのは、覚えのある通りだった。

「ああ」

 私はため息を洩らした。そこは昨年、通り魔事件があった現場のひとつだったのだ。

 記憶は攪拌され、去年の事件がにょきにょきと頭を擡げてきた。こぼれた墨が半紙を浸食するように、それは徐々に私の心に広まっていった。

 私は水浴びをした犬のように頭を激しく振り、事件の記憶を払い落そうとした。物理的行為が心理的要因を駆逐することはままある。自分でも聞き取れない題目のようなものを口内でつぶやきながら、心が落ち着くのを待った。

 漸く平静を取り戻したとき、私は視界に明々と燃える何かをとらえた。実はそれは先程から見えてはいたのだが、それよりも厭な連想が勝ってしまい注目することができなかった。

 愈々濃くなる暗闇のなかに、赤い光が燃えている。目を凝らすと、それは屋台に掛かった裸電球の灯りだった。ぼんやりと、屋台の輪郭が浮かび上がる。

 こんな所に屋台なんてあっただろうか。

 通り魔事件以来この路地を通っていないが、少なくともそれまでは屋台などなかったはずだ。となると、九分九厘この一年の間にできたことになる。しかし、どうして選りに選ってこの通りなのだろうか。この町の人間であれば、ここが事件現場だと云うことは誰もが知っている。では、町の外から越してきた人間が屋台を経営しているのだろうか。私は屋台に興味を覚えた。

 だが、今日はもう妻が夕飯の準備をして待っている。屋台に行くのは日を改めなければならない。

 踵を返そうとして、ふと屋号だけでも確認しておこうと思った。私は何気なく通りを歩き、屋台に掛かった暖簾を一瞥した。暖簾には「ミソハギ屋」と書かれていた。

 奇妙な名前だ。「ミソハギ」とは何のことだろう。「ミソ」は味噌でいいのだろうか。では「ハギ」は? もしかすると、それは夏に美味い、ウナギに似た魚かもしれない――いや、あれはハモだ。違う。

 答えが出ないまま、私は家に着いた。台所には料理の匂いが充満していて、それを嗅いだ刹那一気に空腹を感じた。寝室のクロゼットに外套をしまい、居間に戻る。卓袱台にはすでに何品か料理が並んでいる。

 戦後の復興とともに西洋文化が流入し、現在巷では海外の料理を提供する店が数多くあると云う。だが私は、長年連れ添った妻の素朴な手料理こそを世界随一だと信じている。大きな疾患にかかっていないのも妻のお陰だ。

 食事中も食後も、通りで見掛けた屋台「ミソハギ屋」について妻に話しはしなかった。特に話す必要もないだろうし、屋台のある場所が場所だけに妻の耳には当分入れない方が賢明だろうと思われた。ただ、私のなかでいずれ仕事終わりにでもミソハギ屋へ寄ってみようと云う思いは加速度的に膨張していった。



        二



 四日後、私は漸くミソハギ屋で酒杯を傾ける機会を得た。

 師走は下旬に差し掛かり、空から毛玉のような雪が降っていた。この日、仕事を早めに終えた私は奇貨居くべしとミソハギ屋に足を向けた。妻には「少し飲んで帰る」と会社から電話を入れ伝えた。私の家にはまだ電話線が引かれていなかったので、隣人の家に電話をして呼び出してもらった。

 屋台を出すには道路使用の許可を取らなければならないはずだから、ミソハギ屋の場所は恐らくあの通りに違いないだろう。

 はたせるかな、ミソハギ屋は例の路地にあった。通りの隅に小ぢんまりとした木造の屋台が佇んでいる。灯りは相変わらず爆ぜる炎のように明るく、通りの闇に穴を開けていた。

 私はミソハギ屋の暖簾を潜った。

「いらっしゃい」

 出迎えたのは豈図らんや、私より一回り程も若い男だった。精悍な顔つきで、額に手拭いを巻いていた。身長は一七〇に満たないだろうが、肩幅は広く逞しい。屋台の大将として想像していたのは六十代くらいのオヤジだったから、これには少なからず驚いた。

 私以外に客はいなかった。手製だろうか、少しぐらつく木の椅子に座り、注文を考えた。ミソハギ屋のメーンはおでんらしく、細かく仕切られたおでん鍋の中に具が浸っている。大根、糸こんにゃく、はんぺん、たまご――具は一通り揃っている。おでん鍋の横には幾らか小ぶりの天婦羅鍋もある。天婦羅などあまり食べられる機会はないから、これはなかなか有難い。

「熱燗と、大根、それからはんぺんも」

 あいよ、と云ってすぐに熱燗が出された。大根とはんぺんも間を置かず用意された。熱燗を口に運ぼうとすると、腹の底がぐぅと珍妙な音を出した。

「ははは、熱燗に応へて鳴くや腹の虫とはこのことやね」

 私はついそんな冗談を云ってしまった。恥ずかしさを紛らわすために熱燗をぐいと呷り、大根に箸を入れた。大根は逆らうことなくスッと切れるほど柔らかかった。ダシがよく滲み込んでいて味の濃さも丁度いい。熱燗と大根の相乗効果で寒気に晒されていた私の身体はアッという間に温まった。

「温まるなあ」私の心の声だった。

「今日は雪も降っとりますしね」

 大将はそう云って上を指差した。低空に響くような声だが、不思議と威圧感はまったくない。

「ところで――草城ですか」

 急に云われ、私は覚えず大将を真っ直ぐ見据えていた。まさかこんな場所でその名を知る者に会うとは微塵も思っていなかった。

「大将、草城知っとうと?」

「ほんのちょっとね。確か十年程前に亡くなられたんでしたっけ」

 日野草城(ひのそうじょう)は京大在学中から俳句雑誌『ホトトギス』で活躍していた俳人だ。『花氷』発表後は俳句近代化の波に乗り『ホトトギス』を脱退し、新興俳句運動の主要メンバーとなった。大将の云う通り、草城は一九五六年に亡くなっている。

「でも嬉しいね。周りに同好の士がおらんけね、話したくても話せんっちゃ」

「それは何よりです」

 私はすっかり気分がよくなって、はんぺんを平らげると今度は天婦羅をお任せで注文した。出てきたのはワカサギ、かぼちゃ、玉葱の天婦羅だった。揚げたての天婦羅は口の中でサクサクと音を立て溶けていった。

「天婦羅も美味いなあ」

「へへへ。ありがとうございます」

「どこかで修行を?」

「ええ、つい昨年まで料理屋で働いとったんです」

 そう云って、大将はちょっと照れたように頭をペコリと動かした。なるほど、道理で美味三昧のはずである。

「料理屋を辞めて屋台にしたと?」

「まあ、事情があって」

 空気が少し濁るのを感じた。私はよからぬことを訊いたかなと思い、話題を転じた。

「ところで、ミソハギ屋っち云うのは……」

「僕の苗字が萩尾なんで、そっからです」

 はあ、と私は返事ともため息とも取れぬような声を洩らした。では「ミソ」とは一体なんなのか、ますます気になっていた。

「ミソはそのまま、味噌です」

 私の心を読み取ったかのように萩尾君は云った。

「味噌?」

「特に理由はないんですけどね。味噌汁っち語呂がよかでしょう? そんな感じです」

 どんな感じだろう。しかしそれ以上は訊けなかった。実際「ミソハギ」はなかなか耳触りがよかった。

 その後は熱燗を飲みながら、萩尾君と少々の文学談義をした。萩尾君は雑多な読書を好むらしく、俳句に特別詳しいわけではないようだが、それでも私は家の近くに仲間を見つけられたことが素直に嬉しかった。萩尾君の方でも話し相手ができるのは嬉しいと云ってくれた。

 また来るよ、と云って勘定を払い、私はミソハギ屋を後にした。


 微かに雪の積もった路を歩いていると、電信柱の隅に人影があるのに気付いた。

 淡い電灯の光に浮かび上がるのは女性だった。彼女はジッと一点を見つめている。その先はミソハギ屋があるばかりで面白いものは何もない。

 酔いの力もあって、私は彼女に声をかけた。

「どうしたとね?」

「え」女性はまるで今私に気付いたかのように身体をピクリと動かした。顔を見ると三十代後半――萩尾君と同じくらいだ。

「一人でこんなとこおって、なんしようと」

「見とうとです」

 女性はふっとまたミソハギ屋に目を向けた。遠い昔を見るような目だった。

「ミソハギ屋を?」

「はい」

「なかなか腕のいい屋台やったよ」

「行かれたんですか?」女性がちょっと吃驚した様子で云う。

 これには私の方が反対に驚かされた。私はついさっきミソハギ屋を出たばかりなので、当然女性の目にも入っていたはずである。

 それとも私など見る必要もないとでも云うのだろうか。

「どうでした?」

 女性はおずおずと云った様子で訊ねた。

「おでんも天婦羅も美味かったですよ」

「はあ。それで」

「それで?」

「お店の人――は?」

 漸く合点した。どうやらこの女性は萩尾君に心を寄せているらしい。確かに萩尾君は初対面ながらいい男と感じられた。

「立派な男やったよ。文学の知識もある」

「元気でしたか?」

「ん? ああ、元気やったよ。逞しい体つきしとった」

 そう、と微笑んだ女性の頬に雪が散った。それはいつまで経っても消えなかった。

「行ってみたらどうかね?」

「それはできんのです」

「おや。まあ女性が屋台で一人呑むと云うのもアレやけね。なら早いとこ帰りよ。雪降っとるし風もあるし、ずっとここおったら身体壊すけ」

「ありがとうございます。でも、もう少し――」

 女性をその場に置いて、私は帰路を辿った。

 空が唸っている。外套のポッケットに両手を突っ込み、襟に顎を埋めても、寒さは簡単に潜り込んできた。


 帰宅したときは午後八時を過ぎていた。妻が居間で編み物をしていた。

「ただいま」

「お帰りなさい。ご飯は?」

「少し飲んできたんやけど、味噌汁と白飯、もらうわ」

 妻は編み物を畳みの上に置き台所に立った。

 新聞を広げる間もなく味噌汁とご飯が用意された。私の分と妻の分。妻の方には煮魚とホウレン草のおひたしがある。

「いただきます。――待っとったと?」

「ええ。でもいつもとあんまり変わらんけ、そんな待った感じもせんよ」

 云いつつ妻は煮魚を箸でほぐした。一人だけ外で飲んできた自分が情けなく思えた。

「今日はどこで飲んできたと?」妻が訊いた。

「近くにね、屋台ができとったと。いつできたんか知らんけど。そこに行ってきたんよ」場所は伏せておいた。

「へーえ」

「それでさ、屋号がまた変なんよ」

「なんて云うと?」

「ミソハギ屋」

「ミソハギ屋……」

 箸を止め、妻は卓袱台を見つめながら首を捻った。矢張りミソハギ屋と云う屋号は誰にとっても奇妙なようだ。つい数日前の私を思い出す。私もその屋号についてあれこれ思案したものだった。

「変な名前やろ? なんでもそこの大将――俺たちより一回りも下やけど――が萩尾君っちゅうらしい」

「だからミソハギ?」

「うん。ミソは味噌。味噌汁みたいでいいやろっち云っとった」

 私は味噌汁を啜った。若布と賽子大の豆腐が入っただけの簡単な味噌汁だ。

 それぎりミソハギ屋の話は続かなかった。

「その編み物は?」畳みの上に置かれた編み物を見遣りながら私は訊いた。

「襟巻き。今度あの子の所へ持っていこうと思って」

 妻は箸を置き、完成前の襟巻きを見せてくれた。白い毛糸で編まれたそれは、降り積もる雪よりも柔らかそうだった。妻は今度娘の所へ行くときにその襟巻きを渡すそうだ。

 食事を終え、私は空になった食器を台所へ運んで洗いはじめた。いつもは妻がすべてやるのだが、今日はなぜだか自分がしなくてはならぬと思った。

 冷たい水道水に晒された両手が真っ赤になって痛かった。何度も手拭いで拭いて冷たさを誤魔化そうとしたので食器洗いは遅々として進まなかった。見かねた妻が「手際が悪いっちゃ」と笑いながら代わってくれた。二十五年間冷水に晒されてきた妻の手を私はジッと見つめていた。



        三  



 それから幾度か、足繁くと云うわけではないが、ミソハギ屋に通った。毎回必ず妻に断り、また屋台にいる時間も一時間以内と決めていた。

 通ううち、私は萩尾君がまるで百年の知己であるかのように思えてきた。彼は私よりも大分若いが、なかなかどうして話の合う男だった。我々の話題は専ら文学で、萩尾君は最近の流行作家であれば松本清張や横溝正史が好きだと云った。清張は小倉の誇りだとまるで肉親のような喜びようだった。

 しんと静まりかえった年の瀬の夜、私は萩尾君に例の女性の話をした。

「すぐそこの電信柱の陰におったんよ。ジッとこの屋台を見つめとってね。萩尾君、知っとるか?」

「さあ……」萩尾君は首を傾げた。「僕はそんなに知り合いおらんけね」

「ふうん。萩尾君いい人おらんと?」

「いい人?」

「嫁さんか彼女っちゃ」

 私は仄かに酔っていたので思わずお節介なことを訊いてしまった。それは勿論、あの女性が萩尾君を目当てにしていると頭の隅で考えていたからだ。

 途端、萩尾君の目が暗く沈んでいった。

「いませんよ、今は」消え入る声で萩尾君はポツリと云った。

 恋人と別れ、その傷がいまだ癒えないのだろうと、私は勝手に思った。

「――そうか。しかし君ならすぐに見つけられるやろうけそう気ィ落とさんとき」

 私は勘定を多めに払って足早に屋台を去った。どうにもバツが悪くなってしまった。萩尾君は余分に支払われたお金について何も云わなかった。おでん鍋の奥で悄然とする萩尾君の姿がはっきりと頭に浮かんだ。

 帰り道、数日前と同じ場所、同じ服装、同じ体勢で例の女性がいた。しかし私はなぜか、彼女がそこにいるだろうと云うことがはじめから判っていた。夜空に星が輝くように、彼女が電信柱にいることは極当然だと思われた。

「こんばんは」私は声をかけた。

「あ、こんばんは」

 彼女はまた、今この瞬間私に気付いたと云うような反応をした。

「またミソハギ屋を?」

「はい」

「一度行ってみたらどうですか。あそこは一度訪れる価値あるけ。女性客でも安心して飲めるよ」

 女性はゆっくり首を左右に振った。

「いいえ、駄目なんです」

「え?」

「私はここから見とるのが精一杯なんです」

 私は彼女の視線を辿るようにミソハギ屋に視線を遣った。裸電球に照らされた屋台の輪郭は、丸くなった熊の背のように見えた。寒風にうずくまり誰かの訪れを待っているようだ。私はなぜか、妻の手を思い出した。

「大将知っとうとね?」

 そんな質問が口をついて出てきた。

「――はい、知ってますよ。それはもう、たくさん」

 女性はころころと笑った。思春期の女学生のような、屈託のない笑顔だった。

 だったら矢ッ張り行けばいい、とは云えなかった。ミソハギ屋を見つめる彼女の双眸には、私の言葉を介入させぬ神々しい色があった。私は彼女に別れを告げ、夜の静寂を一人早足で家に向かった。


 妻は今日も私が帰宅してから夕食を取った。私も飯と味噌汁を一緒に食べた。

「あの子、どうだった」

「元気やったよ。襟巻きあげるとそれはもう喜んどったっちゃ」

 今日、妻は足立(あだち)にいる娘の所へ行っていた。先日編み終えた襟巻きを持って、昼に出かけたと云う。私は仕事で行けなかったから、年明けは必ず行こうと誓った。

「すまんなあ。俺も仕事休んで行けたらよかったんやけど」

「いいんよ、気にせんで。あの子はいつでも待ってくれとるんやけ」

 鼻の奥がツンと痛んだ。娘がいた頃、私は何かと仕事の忙しさに託けて家族サーヴィスを怠っていた。妻も娘もその都度諒解してくれていたのだが、本当はもっと一緒の時間を過ごしたかったはずだ。そんなもの今じゃなくたってできるだろうと、私は思っていた。だがそれは愚にもつかない云い訳で、現に今、この家に娘はおらず我々三人は未来永劫時間を共有することはない。

 私はとんだ愚か者なのだ。

「今日もあの屋台に?」

 後悔の沼に沈んでいく私を、妻が話題を変えることで引き揚げてくれた。

「うん、ミソハギ屋っち店よ」

「……ねえ、ミソハギっち……」

「やけ、大将が萩尾君っち云うんよ。ミソは味噌汁の味噌っちゃ」

 私が云うと、妻はどこか腑に落ちない表情をして、

「その屋台、どこにあるん?」

「それは――」

 私は云い澱んだ。ミソハギ屋がある通りは、昨年の通り魔事件で被害者の一人が殺害された場所だ。通りのことは町の住人なら誰もが知っていた。だがそれを妻の耳に入れていいものか、私は考えあぐんだ。無用な不安を妻の心に植え付けたくなかった。

 しかし、妻の有無を云わせぬ表情に、私は白状せざるを得なかった。

 通り魔事件のあった路地だと云うと、妻はきっと唇を結び、俯いた。そしてすっくと立ち上がったと思うと、そのまま寝室へ飛び込んでいった。

 矢張り嘘でも云って誤魔化しておくべきだったのだろうか。

 ところが妻はすぐに戻って来た。右手に、何やら花が握られている。

「この花、知っとるね?」

 卓袱台の前に音もなく正座して、妻はそれを私に渡した。

 細長い茎の上部に、紫色の小さい花が無数に開花している。尖端に蕾がポツポツとついていて、下部は何の変哲もない葉である。

「なんね、これ」

「それね、ミソハギっち云うんよ」

 このとき、私の顔はひどく間抜けだったに違いない。口は半開きで、両手には一輪の花、卓袱台には空になった茶碗――ひとつもまとまりのない世界のなかで、私は(うしお)に飲まれた思いだった。

 ミソハギ――それはここ最近私が事あるごとにつぶやく名前だった。

「今日あの子の所に行ったときね」妻が云った。「そこの和尚さんと堂宇で話したんよ。そしたらそこに、ミソハギが植えられた鉢が幾つかあったけ訊いてみたら、『ミソハギは寒さに弱いから室内に移して越冬させる』っち仰ったんよ。やけ、お願いしてひとつだけ分けてもらったと」

「な、なんでもらってきたと?」

「ミソハギはね、供花として使われるんよ。盆花とか精霊花とか別名があるらしいけど、その名の通りお盆辺りに咲くっち。昔は禊の儀式に使われとったとか和尚さん云っとったよ」

 ――供花として使われる。それはつまり、使者を弔う花と云うことだろうか。だがそれが屋台とどう関係するのか、私の思考はそこまで及ばなかった。

「それでね、その屋台、あの通りにあるんやろ?」

「うん」

「もしかしてその屋台、事件に関係あるんやないかね。だって、ミソハギは弔いの花っち意味やろ。それがあの通りにあるんやけ……」

 ここにきて、妻の云わんとしていることが判った。

 妻はミソハギ屋の大将――萩尾君が事件の被害者を弔うため、「ミソハギ屋」という屋台をあの通りに出しているのだと、そう考えているのだろう。

 そして、被害者のためにそこまですると云うことは、萩尾君は被害者と相当親しい関係にあったと思われる。恐らく家族か恋人か……

 私はつい先ほど萩尾君と交わした会話を思い出した。私が「いい人はいるのか」といらぬ質問をしたとき、萩尾君は悄然として「いませんよ、今は」と答えた。萩尾君の反応は恋人と別れた傷が癒えないのだなと私は思っていたが、それはとんだ思い違いだった。

 確かに萩尾君は恋人と別れた。しかしそれは、恋人を殺されると云う、とてつもなく凄惨な別れだったのだ。

 私は言葉を接げなかった。通り魔事件の被害者は女性二人だったから、そのうち一方が萩尾君の恋人だとしても不思議ではない。無論被害者の女性が誰かの恋人であると云うことは汎すぎる仮定であって、萩尾君と云うのも膨大な選択肢のうちのひとつにすぎない。

 それでも、妻の説を裏付ける符合は多すぎた。私のなかではもうそれ以外の可能性を吟味することなどできなくなっていた。

 恋人が殺された通りに、ポツンと佇む屋台「ミソハギ屋」。裸電球の灯りに照らされながら料理を作る萩尾君の姿が白い煙の向こうに浮かぶ。彼が本当に待ち続けているのは、常連になってくれる客ではなく、不条理な兇刃のもとに倒れた恋人なのかも知れない。

 暫く私たちは何も云わなかった。

 ジリジリと蛍光灯が鳴る音だけが居間に響いていた。

 


        四



 二、三日の間を置いて、私は結局ミソハギ屋に行くことに決めた。妻との会話もあって、はたしてこんな心理状態で行っていいものかと悩んだが、矢張り私は萩尾君に会って直接謝罪せねばならぬと思った。

 気付けば日は大晦日になっていた。

 もうじき新しい年が始まろうとしているのに、ミソハギ屋は当たり前のように佇んでいた。真っ暗な通りの端っこに、電球の灯りに照らされた屋台が浮き上がる。時間の流れから離脱し、それだけが過去に生きているように見えた。

「いらっしゃい」

 萩尾君はいつもと変わらぬ挨拶をしてくれた。私が頼まずとも、彼は熱燗と大根を用意してくれた。毎回訪れるたびに注文するので、萩尾君も覚えてくれたらしい。

 萩尾君の好意に感謝しつつも、私の心は震えていた。情けなさと後悔に、震えていた。手にした熱燗もろくすっぽ口に運べず、箸を持っても中空を彷徨うだけである。

「どうされました?」

 心配そうに萩尾君が訊ねた。私は彼の顔を直視することができなかった。

「いやあ、なんでも」と歯切れの悪い言葉しか出てこない。

「そうですか。――もう大晦日ですね。さすがに今日はお父さんくらいしか来てくれんよ」

 いつしか萩尾君は私のことを「お父さん」と呼んでいた。親子ほど歳が離れているわけではないが、それでもそう呼んでくれることに悪い気はしなかった。本当の娘はもう、私をお父さんと呼んではくれないのだ。

「――萩尾君」

 私はとうとう決心し、名前を呼んだ。「はい」と萩尾君はなんでもないように返事をする。御猪口一杯に注がれた熱燗を一気に胃に流し込んで、

「萩尾君――すまなかった」

 私は掠れる声で謝り、頭を下げた。

「え、どうしたんです」

 萩尾君が動揺するのが声で判ったが、私は頭を上げなかった。

「先日私は君に『いい人はいるのか』なんて莫迦なこと訊いてしまった。酔っとったとは云え申し訳ない。萩尾君の気持ちをもっと早く察するべきやった」

 萩尾君は何も云わなかった。私は徐々に頭を上げ、暫くは空いた御猪口の縁を見つめていた。

「君が云っとったミソハギの由来、あれ、嘘なんやろ?」

「すみません」

「謝らんでくれ。誰だってそうするっちゃ」

「――由来、判りましたか」

「うん」

 だが私は、妻の説を強いて云おうとしなかった。これ以上云えば、それこそ不要なお節介となってしまう。

「ミソハギと云うのは、花の名前なんです――」

 それから萩尾君は、訥々と語りはじめた。矢張り彼は昨年の通り魔事件で殺された女性の夫だった。事件当夜、彼の妻は「近所の○○さんの所へ行く」と云って家を出たきり帰らなかった。心配した萩尾君が周辺を捜し回ったところ、この路地で妻が倒れているのを発見したと云う。妻の下腹部には包丁が突き刺さっていて、服や地面に血がこびりついていたらしい。

 その後、萩尾君は勤めていた料理屋を辞め、妻が殺害された場所に屋台を立てることにしたのだそうだ。彼女が最後にいた場所を守りたい――決心した理由はとても簡単なものだった。本人は云わなかったが、そこにいればいつか彼女が戻って来てくれるとも思っていたのかもしれない。

 ミソハギという名前は妻への弔いのためです、と萩尾君は云った。だが客に由来を問われたときは自分の名前から取ったと答えるようにしていた。変に客に気を使わせては商売人失格だと思ったと云う。

 話し終えた萩尾君は「どうぞ顔を上げてください」と云ってくれた。私は云われるまま、ゆっくりと表を上げた。

 萩尾君は柔和な笑みを湛えていた。だが、裸電球の灯りを反射する一筋の涙が彼の頬を伝うのを、私ははっきりと認めた。

 彼の涙はどこに落ちるのだろう。私はふとそんな取りとめのないことを考えた。それはきっと地を打つことはなく、亡き妻の掌に落ちるのだろう。彼女の足許には風にそよと靡くミソハギの花が、二人を優しく見上げている。柔らかい空気のなかで、萩尾君とその妻は何を語るのだろうか。

 御猪口の中に雫が垂れた。知らないうちに、私は泣いていた。

「萩尾君」情けないほどに不明瞭な声だった。けれども萩尾君は嗤わなかった。

「私も君に、話したいことがある」

「聞かせてください」

 屋台は世間と一線を画し、我々だけの空間を作ってくれていた。寒さのない、暖かな空間――。だからこそ、私は素直に感情を吐露することができた。

「通り魔事件で君の奥さんともう一人、被害になった女性がおったやろ」

「ええ」

「それは――私の娘なんよ」

 娘は昨年、家から少し離れた場所で通り魔に殺された。当時十八歳だった娘は、会社勤めをはじめたばかりで苦労はしていたが、それでも生活を楽しんでいた。まだまだ若いからなんでもできると、娘はいつも云っていた。それが、心なき殺人鬼のために娘は将来を絶たれてしまったのだ。

 娘は現在足立の霊園に眠っている。今年は妻の編んだ襟巻きがあるから凍えずに年を越せるだろう。

「私は娘に何もしてやれんやったよ。いつも仕事が忙しいとか云って、殆どどこにも連れて行ってやれんかった。会話はあったけど、夜遅く帰る父親と年頃の娘やけ、数は限られてた。だが私は、娘と遊ぶことなんていつでもできるやろとかほざいて何もせんやった。そのときは本当にそう思っとったんよ。だってそうやろ、あんな若い娘が急に死ぬとか、それも殺されるとか思わんやろ」

 誰に向かって喋っているのか、もう判らなくなっていた。それは萩尾君かも知れなかった。奇しくも同じ境遇にいる彼に、私の想いを聞いてほしかったのかもしれない。或いはそれは、いまだ逃亡中の犯人に対する怒りだったのかもしれない。だとすると、それを萩尾君にぶつけるのはお門違いだ。

 萩尾君は黙って聞いてくれていた。彼の方が私なんかより余ッ程大人で立派だった。

 それからは殆ど喋らずただ熱燗を飲んでいた。今日は僕の奢りですと萩尾君が熱燗をもう一号つけてくれた。私は彼の好意に甘え、もう一本の銚子も開けた。涙はすっかり枯渇していた。

 去り際、萩尾君が「また来てください」と云った。私は曖昧に頷いてミソハギ屋を出た。


 ミソハギ屋のある通りを家に向かって歩いていると、

「こんばんは」

 と声を掛けられた。酔いと泣き疲れでぼうっとしていた頭を振り声のする方を見ると、いつもの女性だった。彼女の方から話しかけてくるのはこれが初めてだったので、私は変に緊張した。

「こんばんは」

「どうされたんです? 目が腫れてますよ」

 私は瞼に手を当ててみたが、普段とどこが違うのか、よく判らなかった。

「なんでもないんよ」

「あの人と何かお話を?」

「うん、いろいろとね」

 さすがに真実すべてを喋るわけにはいかない。

「ねえ、矢ッ張り一度行ってみたらどうかね? こんなところで凍えとるくらいなら熱いおでんのひとつでも食べた方がよかろ。萩尾君はなかなかいい男だよ」

「いいえ、それはできないんです。それに遠くから見てる方がずっといいんです。でも――うん、少し近づくくらいなら大丈夫ですかね?」

「勿論だ」

 女性は微笑み、

「ありがとうございます。行ってみます」

 と云った。

「うん。大根が美味いけ食べてみり」

「ふふ、判りました。――あ」

 踏み出そうとした足を止め、女性は私を正面から見据えた。

「どうしました?」

 頬を湿らすものがあった。いつの間にか雪が舞っていた。

 私はふと空を見上げた。

 びゅうと吹き抜ける風に、

 

「あなたの娘さん、本当に可愛らしい子ですね。よく私の所へ来るんです。いつもあなたのこと話してますよ。仕事熱心で優しい自慢の父だって」


 女性の声が乗って、私の耳に届いた。なぜだか懐かしい響きをしていた。

 私はしばらく顔を下げられなかった。枯れたはずの涙がまたポロポロと溢れ出していた。瞼を閉じたところで涙はお構いなしに流れてくる。見開けば、夜空が柔らかく屈折していた。

 外套の袖で涙を拭い、私は顔を戻した。

 だがそこに、女性の姿はもうなかった。

 私は振り返り、雪の向こうに続く通りを見た。人気のない路地の奥に、煌々と屋台が光っている。

 大切なものは決して失われはしない。失われたと感じるならそれは嘘である。物質的な生はあくまでかりそめの姿であり、本質はすべて精神のうちにあるのだ。屋台は無言でそう語っていた。

 私は家で夫の帰りを待つ妻を思い浮かべた。妻は今日も、夕食の準備をして待っているのだろう。どれだけ帰りが遅くなろうと、私が必ず戸を開けてくれると信じているのだろう。

 だから私は、帰らなければならない。冷水に晒される妻の手を、握ってやらなければならない。

 私の横には娘がいる。娘は白い襟巻きを首に巻いている。私は娘と一緒に、通りの陰に佇むミソハギ屋を眺めた。  


 冬に咲く弔いの花は、彼らだけの時間のなかで年を越えようとしている。

 

 ふわり、と屋台の暖簾が翻った。

「ミソハギ屋」と書かれた暖簾の向こうに、萩尾君と彼の妻が仲良く声を交わす姿が見えた。


 昭和を直接知っている人もそうでない人も、恐らく昭和という時代にどこか懐かしさを感じられると思います。それは思うに、昭和時代日本が国として成長するあらゆる要素を経験したからでしょう。すべてが必要だったかどうか、ここでは議論しませんが、現代日本の根幹がそこにあるということは事実です。また、木造の家々、駄菓子屋、白黒テレビ、茜に染まる空――ヴィジュアル的な要因も我々のなかに普遍的な故郷の光景を喚起します。

 僕が書きたいと思うテーマのなかに「ノスタルジア」があります。誰もがそれぞれの故郷を持っていて、その形は様々なれど、それを思う気持ちは共通なのです。

 この「通りの陰に」でそういった郷愁を書くことができたかどうか、それは読者の皆様に任せたいと思います。書いた当人としては、今後の執筆の課題点がボロボロ出てきたな、という感じです。プロット段階ではとてもいい作品だと思っていたので、それ以上のことは矢張り筆の力でしょう。

 読了ありがとうございました。どうぞ感想・意見の方もお聞かせください。

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