黒猫の日
空も木々も寒さに顔を赤く染め、身震いする秋の夕暮れ。紅葉を散らし始めた一匹の木の根元に彼女は座っていた。
彼が気がついた時にはすでに彼女がいた。風も冷たくなってくる季節だが、彼女は寒がる気配すらなかった。それでも寒かろうと体を揺らし、その美しい白い毛皮に向けて紅葉の雨を降らしていた。
やがて痺れを切らした彼は尋ねる。
「君はなにを待っているんだい」
彼女は応える。
「あなたが話しかけてくれるのを待っていたのよ」
これにはさすがに驚いた。
「僕を待つなんて、物好きなお客さんだね。声をかけてくれてもよかったんだけど」
「あなたから話しかけてほしかったの」
初めての話し相手だったが、なんて図々しいお客さんなんだと、ため息の代わりに体を揺らす。
「それで、君は僕になにを聞きたいんだい。時間があっても待っているのは辛いんだ」
「ありがとう。でももう少し待ってもらってもいいかしら。日が落ちるまで」
僕が身動きのとれないこの体をこんなにも呪ったのは初めてだった。諦めた僕はまた体を揺らしながら日が落ちるのを待った。
そして静かに夜はやってくる。遠くから響く乾いた音は僕に冬の気配を感じさせてくれた。
日が落ちたことを確認した僕は彼女が消えていることに気付く。待ち望んだ夜はひたすらに暗かったが、それでも相手は白猫、見失うはずがなかった。僕は途方もない悲しみと無力感を感じずにはいられなかった。
「大丈夫、私はここにいる」
どこからか聞こえてくる白猫の声。
「私ね、夜になると黒猫になるの」
クスクスと笑う彼女に僕は腹を立てた。
「君はいったいなんなんだ。そんな悪ふざけのために夜を待ったのか」
「相変わらず冗談が通じないのね」と彼女は笑う。
相変わらず?
「なにを言ってるんだ。大体、話したのは今日が初めてじゃないか」
「何も覚えてないのね。しょうがないわね、思い出させてあげる」
気がつくと身動きできないはずの僕は見覚えのある景色の中にいた。
ちょうど、僕が彼女に話しかけたぐらいの秋の夕暮れの、僕のいるこの場所のようだった。
白猫が黒猫に話しかける。
『そんなにかたくなっちゃって、緊張してるのかしら』
『冗談が通じないのね。でもそういうところも好きよ』
『白と黒って中々お似合いだと思わない?』
『ねぇ、返事ぐらいしたらどうなのよ』
黒猫はそれに応えない。ただ紅葉にくるまり横たわっているだけだった。
『もう、そんなだからいつも私を見失うのよ』
『冷えてきちゃった。もう、行くわね』
『大丈夫よ、戻ってくる』
『あなたが話しかけてくれるまで、何度だって』
冷たくなった彼を撫で、白猫は冬に消えていった。
返事をする気力だってすでになかった。力なく横たわり、そばにいた彼女の声をぼんやりと聞いていただけだった。
やがて僕の中でぷつんと意識の紐が切れ、目が覚めることのない眠りについてしまった。
僕が木として彼女に話しかけたこの日に、黒猫の僕は死んだのだ。
僕は忘れてしまっていた。
懐かしい黒い体、美しい彼女の姿、声さえも。
大好きだった木の下で思い出したのは、紅葉にくるまり寒さを凌いだ秋の夕暮れ。
「思い出したわね」
「うん」
「私をこんなに待たせるなんて」
「ごめん」
「冗談」
笑い声。
じゃあ、一緒にいきましょうか。
白と黒が同化した新たな夜明け。
白く輝く太陽が二匹を照らし、大きな黒い影を作る。二匹が寄り添っているような大きな影。
強い風に吹かれた二匹は、再会を喜ぶかのように身体を揺らし、紅葉を降らせた。
暖かいね。