鬼天竺鼠の夢(お題小説)
沢木先生にいただいたお題である「カピバラの夢」に基づくお話です。
ちょっとエッチかもです。
カピバラ。和名、鬼天竺鼠。一匹の雄と数匹の雌というハーレムな生態で、泳ぎが得意、性格は非常に温厚で人に懐くため、ペットとしても人気がある、現生する最大の齧歯類であります。このお話は、一匹のカピバラと若い女性の飼育員の奮闘記であります。
東京、西東京動物園。総数約三千頭、約五百種類の動物が飼育されている、都内有数の動物園であります。
その一角のカピバラエリアで、いつもの如く戦いが繰り広げられていました。
「ああん、もう!」
カピバラの寝床用の小屋で大声を上げたのはカピバラの飼育員。大きな瞳が愛らしい、まだあどけなさが残る若い女性です。鶯色の作業服にゴム長靴を履き、ポニーテールを作業帽のスリットから出しています。カピバラと大して身長が違わないように見えるのは、彼女が痩せているからでしょう。
「どうしたね?」
老年の先輩飼育員が出入り口の扉から顔だけ出して声をかけます。女性の飼育員はハッとして彼を見ます。
「いえ、何でもありません」
苦笑いして応じる若い女性。彼女の名は、上野真樹。まだ二十三歳の新人飼育員です。長い研修期間を終え、遂にカピバラの担当になりました。
(カピバラって可愛いから、担当になれたの、凄く嬉しかったのに……)
真樹は小さい頃から動物が好きで、高校生の頃からカピバラのヌボーッとした顔に惹かれていました。
「私は必ず動物園に勤めて、カピバラの飼育員になる!」
そう誓った高二の春。
しかし、実際にカピバラの担当飼育員になってみて、その夢は無残にも打ち砕かれました。
(カピバラって、こんなエロオヤジみたいな生態だったっけ?)
研修で学んだ事や、様々な書物で得た知識を総動員しても、今真樹が担当しているカピバラは異質としか言いようがありません。その名はピバ。カピバラの間の二文字をとってつけられた名前です。
(名前もふざけてるけど、こいつ自身はもっとふざけている)
真樹は小屋の奥でこちらをヌボーッと見ている雄のカピバラを睨みます。推定年齢二歳。人間ならもうすでに大人です。
(だからと言って……)
真樹は顔を赤らめて思い起こします。あの屈辱の初対面の日を。
カピバラの飼育員になれた喜びで、その日の真樹は気持ちが高揚していました。
(高二の春から描いていた夢が今現実になるのね)
感動のあまり、思わず涙を零しそうになります。
「上野君、紹介しよう。カピバラのピバだ」
先輩飼育員の権藤が告げます。この道三十年のベテランの権藤はにこやかな表情で真樹とピバを引き合わせてくれました。
「わあ、可愛い!」
つい素人のようなリアクションをしてしまい、不用意に近づいたのが間違いの始まりでした。
「あ、上野君、ちょっと……」
権藤が止めようとした時には、
「きゃああ!」
すでに真樹はピバに背後から圧し掛かられ、危うく交尾されるところでした。いや、現実には不可能ですが、ピバはやる気満々でした。
「こら、ピバ、彼女はお前の嫁さんではないぞ、何してるんだ」
権藤がすぐさまピバを真樹から引き剥がしました。
「ひいい……」
真樹はあまりの衝撃にしばらく震えていました。
「すまんな、上野君。こいつ、今発情期でね」
権藤はピバを押さえつけたままで真樹に詫びました。真樹はペタンと地面に座ったままで、
「はあ」
と応じるのが精一杯でした。
(あれ以来、こいつには背中を見せないようにはしているけど、日増しに知恵をつけているような気がする)
真樹は全くこちらに関心がないようなフリをしているピバに警戒しながら、小屋の中の掃除をしていたのですが、先ほどもほんの一瞬の隙を突かれ、お尻を齧られたのです。
(こいつ、私が『交尾』させてくれないので、攻撃的になっているのかしら?)
一時はそう思ったのですが、それは間違いだとすぐに気づきました。餌の時間になると、小屋から外に出して、広い場所で餌を与えるのですが、ピバは餌に興味を示さず、真樹に擦り寄って来るのです。
(何なの、このエロオヤジっぽい行動は!?)
高校・大学と電車通学だった真樹はたびたび痴漢に遭遇しました。決して物静かな性格とは言えない真樹ですが、さすがに痴漢には大声を出す勇気はなく、されるがままの事がほとんどでした。それでも、西東京動物園の他に受けた奥多摩動物園の面接の帰りに痴漢にあった時は、面接に失敗したと思っていたため、その悔しさが痴漢に向けられ、腕を掴んで駅員に突き出しました。
「この人、痴漢です!」
真樹は、そう言った時のその男の顔がピバによく似ていたと思いました。ヌボーッとしていながら、目の奥に危険な光を宿している感じだったのです。
「上野君はピバに気に入られたんだね」
事情をよく知らない園長が真樹の仕事ぶりを見に来てそう言った時、
「違います!」
と叫びたかった真樹ですが、大人の事情でできませんでした。
「ほら、ピバ、餌を食べなさいよ。お腹空いてないの?」
真樹は餌箱の中の人参を剣のように突き出し、ピバを威嚇しながら言います。しかしピバは相変わらず惚けた顔で真樹に擦り寄って来ます。人参や他の餌には見向きもしません。
「ピバ、いい加減にしないと怒るわよ!」
遂に業を煮やした真樹が大声で叫びました。するとピバはピクンとし、スゴスゴと引き下がります。そして寂しそうな背中で小屋の中へと入って行ってしまいました。
(怒り過ぎたかな?)
真樹はギクッとし、餌箱に人参を戻して小屋に駆け寄ります。小屋を覗き込むと、ピバの姿が見当たりません。小屋の奥にある藁で作ったベッドにいないのです。そこはピバが小屋にいる時の定位置なのです。
「あれ?」
急に不安になり、真樹は小屋に入りました。
「ピバ? どこにいるの?」
天井の低い小屋に入ると、自然に腰を屈める事になります。それがピバの罠だと気づいたのは、その直後でした。
「いやあ!」
小屋の扉の陰に潜んでいたピバが、真樹を背後から襲撃し、圧し掛かります。
「いや、ピバ、何考えてるの、私は貴方のお嫁さんじゃないのよ!」
しかし、態勢を崩され、力が入らない状態でピバに圧し掛かられたので、真樹は前のめりになり、まさしく準備万端の格好になってしまいます。
「ちょっと、ピバ、いい加減に……」
ピバは全長が130cmほどあり、体重は60kgほどありますから、それより体重が軽い真樹がピバを一人で押し退けるのは難しいです。
「ひいい!」
真樹は何かがお尻に当たるのを感じ、絶叫します。まさしく火事場の馬鹿力でしょう、彼女はピバを跳ね飛ばし、小屋から飛び出しました。
「どうした、上野?」
近くにいた権藤が真樹の悲鳴を聞いて駆けつけてくれました。カピバラエリアの柵の周りには人だかりができています。
「ピ、ピバに襲われましたあ!」
真樹は泣きながら権藤に駆け寄り、抱きつきました。権藤は若くて可愛い真樹に抱きつかれ、真っ赤になりました。
「う、上野……」
権藤は周囲にいる観客の目に気づき、真樹の身体を押し戻しました。
「しっかりしろ、上野」
目の焦点が合っていないような状態の真樹を見て、権藤は携帯で主任飼育員に連絡を取りました。やがて、主任飼育員と嘱託の医師が駆けつけ、真樹は事務所に連れて行かれました。
「ピバ、お前なあ……」
権藤は、ノホホンとした顔でそれを見ていたピバに呆れたように呟きました。ピバは真樹の姿が見えなくなったので、エリア内に設えられた人工池に飛び込み、悠々と泳ぎ出しました。何があったの、という顔つきです。
「担当替えしないと、上野が危険かも知れないな」
主任飼育員が戻って来て言いました。
「そうですね」
権藤は悲しそうな目でピバを見ます。
(自業自得だけど、ピバが可哀想だな。こいつ、ある意味上野に心を開いてたんだろうからな)
自分の周囲が騒がしくなるとは思っていないのでしょう、ピバは気持ち良さそうに泳ぎ続けました。
事務所の医務室に行き、医師の診察を受けた真樹は、精神的なショックが大きいと判断され、ベッドで休んでいました。
(もう、私の夢が壊された……。あの変態カピバラめ!)
真樹は布団を顔の半分までかけ、涙ぐみました。
(主任に言って、配置換えしてもらおう。もっと小さい動物の係になりたい……)
今でも、腰の辺りにはピバの前足の感覚が残っています。そしてお尻の辺りにはあの感覚も。
「ううう!」
思わず身震いしてしまう真樹です。
(これが人間同士だったら、犯罪よ! 訴えられているわ。バカピバ!)
初対面の時、ピバに圧し掛かられた時は、
「私を気に入ってくれたんだ」
と善意に解釈し、懸命にピバの世話をした真樹でしたが、もう我慢の限界でした。
(私はまだ嫁入り前なのよ。冗談じゃないわ)
例え嫁入り後でも、カピバラと『交尾』するのは冗談ではないと思いますが。
「上野、大丈夫か?」
そこへ権藤が顔を出しました。真樹は布団を下げて権藤を見ると、
「権藤さん、私どうすればいいんですか? もうピバが怖くて、担当、無理です」
と泣き出してしまいました。権藤は自分のせいで泣かれたような気がして困惑しましたが、
「主任も言ってたよ。多分担当替えになると思う」
と告げます。真樹は泣くのをやめました。そして潤んだ目で権藤を見ます。何故か権藤はドキッとしてしまいました。歳の割には純情のようです。
「ホントですか?」
真樹が嬉しそうな顔をしたので、権藤は続けて言いたかった言葉を飲み込みました。
(ピバが上野に心を開いているから、もう少し頑張ってみないかなんて言えないな)
権藤は知っているのです。ピバの前の担当は若い男性飼育員でしたが、ピバは彼を警戒して、餌も彼がいなくなるまで食べず、小屋の掃除をする時は外に逃げ出して一番離れた所にいました。その飼育員に問題はなかったのですが、ピバは彼と距離を置いたままでした。
(そんな時、上野が研修を終えた。カピバラの担当を希望していたので、渡りに船だったから、すぐに採用になったんだよな)
権藤は、ピバが人見知りをするので最初は反対だったのですが、今のままでもピバが可哀想だと思い、真樹に懸けてみる事にしました。それは半分正解でした。ピバは真樹を気に入ったようで、真樹のそばから離れようとしなかったのです。初対面の時、悪いイメージを持たれたかとも思ったのですが、真樹は頑張ってくれました。
(しかし、結果的に上野を傷つけてしまった。やはり反対するべきだったんだ)
権藤も今回の件にショックを受けているのです。
「権藤さん?」
真樹は権藤が眉間に皺を寄せて黙ったままなので、声をかけました。
「あ、すまん、ぼんやりしていた」
権藤は恥ずかしそうに頭を掻きました。そして、
「しばらくは決まった動物の担当にはならないと思う。いろいろと体験してもらった上で、判断させてもらうから」
と言いました。
「はい。ありがとうございます」
真樹は真っ直ぐに権藤を見て応じました。権藤は頷き、医務室を出て行きかけます。ドアノブを回したところで、彼は不意に振り返りました。
「君に謝っていなかったな。我々の判断ミスで、君を危険な目に遭わせてしまって申し訳なかった」
権藤は作業帽を取り、半分禿げ上がった頭を下げました。真樹はその行為に驚いて起き上がりました。
「権藤さん、やめてください、そんな事……。私が未熟だったんです。謝らないでください」
真樹はまた涙ぐみました。権藤は顔を上げて苦笑いし、
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
と言い、ドアを開いて医務室を出て行きました。
その日、真樹はいつもより早く帰宅しました。動物園勤務も長年の夢でしたが、一人暮らしも夢だった真樹は、園の近くにアパートを借りて住んでいます。担当の動物に何かあった時、すぐに行けるようにという思いからです。しかし、新人の真樹が緊急呼び出しをされる事などないのです。
「はあ」
溜息を吐き、真樹はベッドの上に腰を下ろします。
(これからどうなるんだろう? もしかして、飼育員から外される?)
動物園で事務職をするつもりがない真樹は、そうなったら辞めるしかないとも思っています。
(事務職が嫌な訳じゃないけど、私が動物園に勤務しようと思ったのは、動物に関わりたかったからだ)
その時、真樹はハッとしました。
「私、逃げてる……」
ふとそう思いました。
(動物に関わりたくて入ったはずなのに、あれしきの事で泣いて喚いて、何なのよ……)
自分を情けなく思います。
(ピバは人間じゃない。だから、こちらの思っている事が全部理解できる訳じゃないし、人間の常識で計っていたら、動物と関わる事なんてできない!)
真樹は立ち上がりました。
(明日、主任に話そう。ピバともう一度向き合いたいって)
そう決意すると、途端に睡魔が襲って来ます。今日はピバとの格闘に明け暮れていましたから、クタクタなのです。
「明日の朝、シャワー浴びよう」
真樹は着替えもしないでそのままベッドに倒れこんで眠りました。
翌朝、思った以上に清々しい目覚めを迎えた真樹は、シャワーを浴び、朝食をすませると、アパートを出ました。
(頑張るんだから!)
歩きながらガッツポーズをし、周囲の人に笑われているのに気づかない真樹です。
園に着くと、すぐに事務所に走ります。するとドアの前で権藤に会いました。
「おはようございます!」
真樹が元気良く挨拶したので、権藤はびっくりしたようですが、
「おう、おはよう。もう立ち直ったみたいだな」
とホッとしたように微笑みます。真樹は、
「はい! もう大丈夫です!」
とまたガッツポーズをします。そして、
「主任はいらしてますか?」
と尋ねました。権藤はドアを見て、
「奥にいると思うよ。どうしたんだ?」
「ピバの担当を続けさせてもらおうと思って」
真樹は少し恥ずかしそうに言います。昨日、権藤に泣きついて担当替えを願い出た経緯があったからです。権藤もまさか真樹がそんな事を言うとは思わなかったので、
「そうか」
とだけ言い、
「頑張れよ」
と真樹の肩をポンと叩くと、事務所から立ち去りました。
「ありがとうございます!」
真樹は歩き去る権藤の背中に頭を下げ、事務所に入りました。
「主任、いらしてますか?」
真樹は事務所の奥の主任室のドアをノックして言いました。
「上野君か? いるよ。入りなさい」
主任の声が答えます。
「失礼します」
真樹はドアを開き、中に入りました。
「昨日は大変だったね。もう大丈夫なのかね?」
主任は机で何か書類に目を通していましたが、真樹が入って行くと立ち上がってそう言いました。
「はい、もう大丈夫です。それで、お願いがあるのですが……」
真樹は言いにくそうに切り出します。主任は真樹に椅子を進め、自分も座ります。
「担当替えの件だね。もう少し小さい動物の担当を考えているところだ」
主任が言いました。真樹はますます言い辛そうな顔になり、
「実は、ピバの担当を続けさせていただきたいんです」
「ええ?」
主任は権藤より意外そうな顔をしました。
「随分身勝手なお願いでしょうが、どうかお聞き届けください」
真樹はテーブルに両手を着いて頭を下げました。主任は困った顔になり、
「いやあ、園長にも話をしてしまったからねえ」
「では、私が園長に謝罪に参ります」
真樹が顔を上げて主任を見ます。その目は潤んでおり、主任はドキッとしてしまいました。
「君の熱意はわかった。園長には私から説明しておく。今日もピバの世話、頼んだよ」
主任は苦笑いをして、真樹の肩をポンと叩きました。
「ありがとうございます、主任!」
真樹はもう一度頭を下げました。
そんな騒ぎがあったとは知るはずもないピバは小屋の中でヌボーッとした顔で寝そべっています。
「ピバ、おはよう!」
今までにないくらいの大きな声を発して小屋に飛び込んで来た真樹にピバはキョトンとした顔を向けました。妙に元気だな、とでも思っているのでしょうか?
「ピバ、ごめんね。貴方は一人で寂しかったのよね。私、今まで以上に頑張るから、これからもよろしくね!」
真樹はムクリと起き上がったピバに後ろから抱きつきました。
「ピバ……」
そして泣いてしまいます。
「ごめんね、本当にごめんね……」
五cm以上にもなるタワシのような硬い体毛がチクチクするのも構わず、真樹はピバを抱きしめます。
「ピバ?」
真樹の気持ちが伝わったのか、ピバはジッとしています。今までなら、いきなり真樹に圧し掛かろうとするのです。
「ピバ……」
気持ちが伝わったような気がした真樹は涙をポロポロピバの剛毛に垂らしました。ピバは真樹に抱きしめられて満足なのか、目を閉じていました。
その頃主任は、園長室にいました。
「そうか。上野君、何があったのか知らないが、よく思い直してくれたね」
主任とソファに向かい合って座っている園長は嬉しそうに言いました。
「はい。上野はあのまま辞めてしまうのではないかと思っておりましたので、私も驚くやら嬉しいやらで」
主任もにこやかに話しています。園長は真顔になって、
「それで、権藤さんの方だが、どうかね?」
権藤の名を出され、主任もピクンとして顔を引きつらせます。
「意志が固いですね。思い止まってもらうのは無理のようです」
「そうか」
園長は沈痛そうな顔で俯きます。
「この園を大きくしてくれた立役者の権藤さんが辞めるのは痛いな」
「はい……」
二人は間にあるテーブルの上の権藤の退職願を見つめました。
園長と主任の悩みを知らない真樹は、ピバの小屋の掃除をしています。さすがに背後を足られたくないので、ピバを外に出し、扉を閉じました。
(いくらピバでも、あれを開けて入って来る事はできないよね)
真樹はムフッと笑ってブラシで床を擦ります。
(それにもう、仮に昨日みたいな事になっても、パニックにならずに対応する自信もできたし)
真樹はピバが優しい言葉をかけると大人しくなるのに気づいたのです。
(ピバは私が好きなんだから、私が嫌がっているのを理解してもらえば大丈夫)
真樹はニコニコしながら掃除を続けます。ピバの寝床にしている藁が随分ヨレヨレになって来たので、新しい藁で寝床作りです。古い藁を小屋の端に寄せ、新しい藁をクルクルと束ね、敷いて行きます。
「よし、完了!」
真樹は四つん這いになって藁を敷き詰め終わり、額の汗を拭います。その時、ギイッと小屋の扉が開きました。
「権藤さん?」
そう思って真樹が振り返ると、そこには器用に扉を開くピバの姿がありました。
「えええ!?」
まさかと思っていた真樹は呆気に取られてしまい、ピバの「侵入」をあっさり許してしまいます。
「ぎええ!」
真樹の今の格好は、
「どうぞいらっしゃい」
だったので、ピバはそのまま圧し掛かって来ました。
「ひいい!」
先程の余裕はどこかに吹き飛んでしまったのか、また真樹はパニックです。
「ぎゃああ!」
お尻にピバのあれが当たるのを感じ、真樹は絶叫しました。
「やめて、ピバ、やめて!」
涙を流しながら懇願する真樹。しかしピバは聞く耳持たずのように真樹に圧し掛かったままです。
(ダメよ、真樹! 冷静になって!)
自分が大きな声を出すからピバが興奮する。そう分析した事を思い出した真樹は、次第に冷静さを取り戻します。
「ピバ、やめて。お願い。私はあなたが大好きだけど、お嫁さんじゃないのよ」
真樹は涙を拭い、顔を汚しながら懸命にピバに訴えました。すると真樹の思いが通じたのか、ピバは真樹から離れ、新しくなった寝床に行って寝そべりました。
「わかってくれたのね、ピバ」
真樹はホッとしてピバを見ます。
「上野、大丈夫か!?」
声を聞きつけて権藤と主任が小屋にやって来ました。真樹は汚れた顔を首に提げたタオルで拭い、
「大丈夫です」
と答えました。ところが、何故か権藤と主任は真樹のお尻に目を奪われています。
「な、何ですか、お二人共?」
真樹は恥ずかしくなって慌てて向き直ります。すると権藤が、
「上野、お前の尻にピバのが……」
と言いました。
「え?」
真樹はキョトンとして、お尻に手を当ててみました。
「ひいい!」
真樹は自分のお尻に何かがかけられているのに気づきました。
(まさか、ピバ……)
また涙目になる真樹です。
「あんた、私の言う事を聞いてくれたんじゃないのね!」
ピバが真樹から離れたのは、「終了」したからでした。
「もう……」
でも、真樹は昨日までの真樹とは違います。苦笑いして立ち上がりました。
「上野、大丈夫か?」
権藤と主任が心配そうに真樹を見ています。真樹は二人に微笑んで、
「大丈夫です。ちょっと着替えて来ますね」
「ああ、そう」
狭い小屋なので、権藤と主任は後ろに下がって出ます。
「失礼します!」
真樹は二人にペコリと頭を下げると、カピバラエリアを出て行きました。
「大丈夫みたいですね」
権藤が言いました。主任は頷いて、
「そうみたいだな」
と応じました。そして、
「さっきの話の続きだが……」
すると権藤は苦笑いして、
「大変申し訳ありませんが、もう決めた事なんです」
「そうか……」
主任は悲しそうに言うと、カピバラエリアを出て行きました。
「ふう」
権藤は溜息を吐き、小屋の中からヌッと顔を出したピバを見ます。
「いいな、お前は気楽で」
権藤はフッと笑うと、エリアを出て行きました。ピバはそれを見届けると、池にダイブし、泳ぎ出しました。
真樹は事務所の女子更衣室に行くと、自分のロッカーから予備の作業服を出し、着替えました。
(ピバ、お嫁さんが欲しいのかなあ)
真樹は思いました。
(一人ぼっちだもんね。私だったら、おかしくなっちゃう)
もしいきなり自分以外全員外国人の職場に放り込まれたら、絶対に働けないと思う真樹です。
「主任にピバのお嫁さんを頼んでみようかな」
真樹はロッカーの鏡を見て襟を直し、ピバに汚された作業服を事務所の裏にある洗濯機に放り込みかけ、
「手洗いした方がいいか」
と考え、液体洗剤を作業服にかけ、石造りの流し台でゴシゴシ揉み洗いしました。
権藤は真樹が事務所の裏で作業服を手洗いしているのを見かけ、近づきます。
「何してるんだ? 洗濯機で洗えばいいだろう?」
権藤の声にハッとして真樹が顔を上げます。
「でも、何だか悪くて……」
「気にするな、もっと凄いのも放り込まれてるんだから」
権藤はニッコリして言いました。真樹も釣られて微笑みます。
「そうですね。でも、もう洗い終わりましたから」
真樹は作業服を広げ、物干し竿にかけました。そして、まだ自分を見ている権藤に気づき、
「あの、権藤さん?」
と問いかけました。何か話があると思ったのです。すると権藤は苦笑いします。
「あ、いや、何でもないよ。悪かったな、邪魔して」
権藤はそう言って事務所から離れて行きました。
「変な権藤さん」
真樹は首を傾げて呟きました。
「さてと」
真樹は大きく伸びをしてから、事務所に戻りました。ちょうどそこに主任が表から入って来ました。
「主任!」
真樹はさっきの事を進言してみようと思い、声をかけます。
「どうした、上野?」
主任は真樹を見て尋ねました。真樹は意を決して、
「ピバにお嫁さんをもらうことはできないでしょうか?」
主任は真樹がピバに酷い目に遭ったのを目の当たりにしているので、
「園長と相談してみるよ。いずれにしても、今のままでは君ばかりでなく、ピバも可哀想だからね」
と言ってくれました。真樹は目を輝かせて、
「ありがとうございます、主任!」
と深々と頭を下げました。
そして、それから一ヵ月後。
ようやく他の動物園から雌のカピバラを譲り受ける事になりました。そのカピバラの名前は天のいたずらか、「マキ」。それを知って真樹は頭痛がしそうでした。
「どういう事なのよ、ホントに」
ピバにお嫁さんが来てくれるのは嬉しいのですが、そのお嫁さんが「マキ」なのは何ともコントのようでありますが、とても笑えないと思う真樹です。
「もう大丈夫だな」
ピバとマキが仲睦まじそうにしているのを見て、権藤が言いました。
「大丈夫じゃないです。権藤さん、辞めないでくださいよ」
真樹はつい二日前に権藤が退職するのを主任から聞かされて、剥れています。
「そいつは無理だ。俺ももう若くないから、そろそろ身体を休めたいんだよ」
権藤は真樹に微笑みました。真樹は涙が込み上げて来るのを堪え、
「それはわかりますけど、私にだけ内緒にしていたのはどうしてですか?」
権藤もそれを言われると辛いのです。真樹を動揺させたくない。せめてピバの相手が来てくれるまでは内緒にしておいて欲しい。権藤が園長以下職員全員に懇願したのです。真樹はそれがどうにも納得がいかず、意固地になっています。
「それは本当にすまないと思っている。只、お前の事を除け者にした訳じゃない事だけはわかってくれ、上野」
権藤の目が涙で光るのを見て、真樹は自分の我がままを恥じました。
「わかってますよ。わかってるけど……」
真樹は権藤に抱きつきました。権藤はまた真っ赤になりました。
「でも、寂しくて、辛くて、やり切れなくて……」
「上野……」
権藤は泣きじゃくる真樹の頭を優しく撫でました。
そしてその日、権藤は西東京動物園を退職しました。
それから一週間後。
真樹はピバとマキの愛の巣を掃除しています。
(やっぱりピバは欲求不満だったのね。マキが来て以来、私に圧し掛からなくなったし)
真樹は上機嫌です。その時でした。
「いやあ!」
またピバが圧し掛かってきたのです。
「何でよ、ピバ!? 私は人間の真樹なの! あなたのマキは外にいるでしょ!」
そう言いながら、真樹はある事を思い出しました。
(そうだった。カピバラって、雄一匹に雌が何匹か番うんだっけ……)
当分、真樹とピバとの戦いは続きそうです。
おしまい。
お読みいただきありがとうございました。