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Episode9 【パラドックス】※

※がついています。

苦手な方は閉じてください……。

 Episode9 【パラドックス】※


 §



 激しい支配の夜が明け、洋館には静かで重苦しい空気が満ちていた。


 神代(かみしろ)(れい)は、響の寝室のベッドで、深く眠りについていた。いくら夏とはいえ、ダイニングでワインまみれになったまま寝かせたままにはさせられなかった。深夜を回った頃に、深い眠りに落ちている怜の体を担ぎ、寝室へと運んだのだ。


 響はコーヒーカップを手に、怜の寝顔を見下ろしながら、昨夜の出来事を曖昧に思い出していた。

 ダイニングでワインを浴びた怜は、卓上に突っ伏してすぐ気を失い、その場から一歩も動かなかった。響は仕方なく、彼の細い体を抱き上げて寝室まで運んだのだが、その道中がどうにも不愉快だった。


 ――重い。やけに重い。


 普段は完璧な優等生である怜が、完全に意識を手放して響に体を預けている状態が、響の支配欲を刺激する一方で、純粋な重さという物理的な現実が、その激情を削いでいった。


「運んでいる間に、あいつの右肘が、私の顎に二度、完璧にヒットしたはずだ」


 響は、微かに鈍痛が残る顎を摩った。深く眠っていた怜は抵抗どころか、運ばれている間、響のスーツの胸元にしがみつき、まるで五歳児のように「タルト……」と寝言を呟いていたような気がする。

 響もあの時、慣れない痴話喧嘩とワインのせいで寝ぼけ眼だったため、その光景が現実だったのか幻覚だったのか、定かではない。


「……あの時の寝言が、本当にタルトを指していたのか、あるいは私に対する最も下劣な皮肉だったのか、確認するべきだろうか」


 響はそう呟くと、面倒くさそうに頭を振った。


 ――どちらにせよ、二度とあんな場所で寝落ちさせるわけにはいかない。私の尊厳が保たれない。

 響は、再び冷徹な表情に戻り、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。この静寂は、怜が目を覚まし、再び昼の舞台へ上がるまでの、つかの間の猶予だった。

 響は、彼を揺り起こした。


「怜。起きろ」

「ん……ひびき……」


 怜は呻きながら目を開けた。全身の激しい痛みが、彼の感覚を思い出させる。


「ああ……おはよう」


 怜は、痛む腕を上げ、枕元に置いてあった携帯を探った。いつのまにかベッドにいるということは気絶した後に響が運んでくれたのだろう。

 画面を開くと、一通の事務的なメールが届いている。差出人の名前を見た瞬間、怜の瞳が、一瞬でビジネスマンの鋭い光を取り戻した。


「おい、響。見ろ、これ」


 怜は携帯を響に手渡した。響がその内容を読むと、眉間に深い皺が刻まれる。

 

 件名:【緊急】次世代インフラ戦略に関する面会要請

 拝啓

 この度、貴社が先日締結された田崎ホールディングスとの契約実績、及び貴社(神代様)の市場に対する洞察力を高く評価させていただきました。

 つきましては、弊社の次世代インフラ戦略の一環として、神代様との緊急面会を要請したく、ご連絡いたしました。

 弊社役員との面会日程について、至急ご調整ください。

 株式会社 オリジン・グループ 経営企画部

 

「オリジン・グループ……」


 響は、その名前を低く呟いた。


「そうだ。オリジン・グループだぞ、響!」


 怜は、全身の痛みを忘れ、歓喜に顔を歪ませた。

 『オリジン・グループ』は、デジタル・アリストクラシー階級の中でも、旧財閥系に匹敵する影響力を持つ、この世界の最大手企業の一社だ。彼らと契約を結ぶことは、単なるビジネスではなく、この社会の頂点へと一気に駆け上がるパスポートを意味しているといわれている。


「願ってもない話だ。田崎との契約がうまく行ったのを見込んで、あちらから連絡してきたんだ。俺たちの計画より、ずっと早い」


 怜は、響から携帯を受け取り、すぐに返信の文面を打ち込み始めた。

 しかし、響の胸の内には、喜びではなく、冷たい不安の渦が巻いていた。


「待て、怜」響は言った。


「オリジン・グループは、常に新興企業を利用する側だ。ここまで急な面会要請は、通常ありえない。田崎との契約が公になった直後で、あまりにタイミングが良すぎる」

「何を疑っているんだ。俺たちは、このチャンスを掴むために、ずっと努力してきたんじゃないか」


 怜は顔を上げ、苛立ったように言った。


「その通りだ。だが、この世界で頂点に立つ者は、常に獲物を探している。御前が、彼らの獲物になる可能性も考慮しろ」


 響の懸念は、怜の完璧な仮面に潜む、脆い本質を知っているからこそ生じるものだった。しかし、怜は、その懸念を振り払う。


「俺の完璧な演技を見くびるな。俺は、誰にも利用されない。せいぜい、俺がお前を利用するのと同じさ」


 怜は、再び偽物の顔に戻り、響を挑発した。


「それよりも、俺がこの商談を成功させたら、その報酬として、今夜は昨夜よりもさらに過酷な罰を用意しておくんだな。俺の勝利にふさわしい屈辱を」


 響は、その要求を拒絶できず、ただ沈黙した。


 

 §

 

 

 オリジンとの契約が無事進んだその日の夜。


 神代怜は、いつもの洋館の寝室で、窓辺のソファに腰掛けていた。今夜はまだ響が帰宅していなかったため、照明は落とし、手元の古い洋書にだけ小さな読書灯の光を当てていた。

 窓の外の木々が、微かな風に揺れる音だけが聞こえる。怜は、一文字ずつ丹念に活字を追っていたが、その意識の半分は、響の帰宅を待つことに注がれていた。


 ――遅いな、加害者様。今日は商談が長引いたのか。


 やがて、遠くの廊下から、冷たいフローリングに響く革靴のヒール音と、重厚な扉が開く音が聞こえてきた。一ノ瀬響の帰宅だ。

 しかし、その足音はいつもより遥かに荒く、焦燥に駆られたように乱れていた。いつもの、理性を纏った完璧な響ではない。

 怜が洋書を閉じる間もなく、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。響は、コートも脱がずに部屋へ踏み込み、怜をソファから引き剥がすなり、その細い体を壁に強く押し付けた。


「ッ……何だ、響。やけに荒いな。昼の舞台で、まさか優等生の仮面が剥がれたか?」


 怜の挑発的な言葉を無視し、響は容赦なく、怜の唇を塞いだ。

 それは、怜が知るどのキスとも違っていた。冷たさも、計算された屈辱もない。あるのは、焦燥と、制御不能な熱、そして切迫感だ。歯がぶつかり、血の味が広がる。響の激しい舌の動きは、まるで、抑圧された感情を吐き出そうとするかのようだった。


 ――なんだ、この動揺は。


 怜の内心は一瞬でざわついた。響の吐息は熱く、彼の心臓が、鼓動を乱しているのが伝わってくる。怜の目的は、響の「完璧な仮面」を剥がし、獣の衝動を引きずり出すことだ。目の前の響は、既に半ば壊れている。

 怜は、瞬時に響の要求を悟った。

 このキスは罰ではない。済と、破壊願望の混淆(こんこう)だ。


 怜は、壁に押し付けられたまま、抵抗を止めた。そして、片方の腕を響の首に回し、逆に深く、ねっとりと響の舌を絡めとった。


「ッ……は、はぁ……」


 響が息を上げる。怜は、耳元で挑発的に囁いた。


「どうした、響。焦ってるのか? そんなに俺を早く汚したいのか?」


 その瞬間、響の理性のタガが完全に弾け飛んだ。

 響は怜の体を壁から引き剥がし、そのまま床に押し倒した。


 痛みは凄まじかった。

 怜は、声にならない悲鳴を上げ、全身の神経が焼き切れるような感覚に襲われた。響の支配は、肉体の限界を超えて行われた。

 そして、怜の意識は、激しい衝撃の奔流の中で、ぷつりと途切れた。



 ~

 

 

 どれくらい時間が経ったのか、怜にはわからなかった。

 最初に感じたのは、激しい痛みの後に残る、全身の疲労と、身体の奥深くで続く断続的な衝撃だった。

 意識は、水面に浮かぶ蝋燭の炎のように、か細く揺れている。目を開けても、天井がぼんやりと滲んで見えるだけだ。

 体が揺れている。激しく。シーツが擦れる音と、響の荒い、低い唸り声が、鼓膜を震わせている。


 ――……ああ、まだ懲罰の途中か。


 怜の体は、ベッドでほぼ腹ばいにさせられていた。その両手は、背中の下で無様に組み合わされており、響は、怜の細い腰に跨がるようにして、背後から深く挿入し、激しく支配を続けていた。この体勢は、怜の顔をシーツに埋めさせ、視界と呼吸を奪う、最も屈辱的かつ、支配的なものだった。

 挿入されている。

 痛い。

 しかし、激しい痛みは、意識を失う直前の快感と結びついていたため、脳は反射的に快楽の信号も送っている。体が揺れるたびに、意識が遠のきそうになる。


「……ッ、は、ぁ……ッ」


 これは自分の声か、響の声か。区別がつかない。

 その時、頭上で響の声が聞こえた。それは、いつもの冷徹な声でも、獰猛な獣の声でもなかった。泣き出しそうなほど、切実で、情けない声だった。


「……ッ、ごめ、んな……。怜……」


 ――何を……謝って……。


 怜は、問い詰めようと口を開こうとした。

 しかし、喉は乾ききり、声が出ない。

 その隙に、響の行為は更に深くなり、怜の視界は再び白く点滅した。

 そして、その閃光の中、響の掠れた声が、怜の耳の奥に、最も汚い異物として、はっきりと突き刺さった。



「……愛してる」



 ――ぁいしてる?



 脳が、その単語を認識するまでに、半秒の時間を要した。


 愛してる。響が? この俺に?  罰を与え、支配し、憎んでいるはずの、俺に?


 ――何を、ふざけた……。


 反射的に、全身の疲労と痛みを無視して、怜の体が激しく痙攣した。それは快感でも痛みでもない、拒絶の動きだった。


「ひ、びき……ッ! 今、てめぇ……な、にを……」


 問い詰めるための言葉が、喉から出てこない。

 強烈な衝撃と、全身を駆け巡る快楽の奔流が、朦朧とした意識を再び押し流し始めた。

 響の熱、激しさ、そして、あの「愛してる」という、歪んだ支配関係における最も致命的な矛盾(パラドックス)


 怜の視界は、完全に暗闇へと沈み込んでいった。

 彼が最後に感じたのは、背徳的な快感と、響の熱い吐息の中で繰り返される、あの汚らわしい単語の残響だった。

 

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