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Episode7 【記憶】

Episode7 【記憶】


 §



 幼い怜は、病室の白いベッドの上で、点滴に繋がれていた。重い病気ではないが、彼が少しでも体調を崩すと、両親は過剰なまでに心配し、最高の医療を受けさせた。


「怜、大丈夫よ。あなたは、完璧で、健康で、私たちが望む全てなのよ」


 母親の顔は、不安と愛情に満ちていた。しかし、その愛情の裏側には、常に神代家の完璧な息子を失うことへの、エゴイスティックな恐怖があった。

 ある日、点滴が終わり、看護師が抜針しようとしたとき、怜は、突然、自ら針を抜いた。

 ブチッ、という音と共に、細い腕から血が噴き出す。


「あっ……!」


 看護師の悲鳴。

 しかし、幼い怜は、その痛みと、噴き出す血の色を見て、初めて、胸の奥に熱い感情が湧き上がるのを感じた。


 ――本物だ……。この痛みは本物なんだ。


 その日、両親は泣き崩れ、彼を抱きしめた。その必死な姿を見て、怜は悟った。


 ――自分が完璧であればあるほど、両親は自分の健康な体を愛する。だが、自分が傷つくことで、彼らは俺自身に、恐れと悲しみを向ける。


 怜にとって、「痛み」は、誰にも奪われない、自分の「存在」を証明する唯一の手段だった。

 そして、その行為は、最も愛してほしい人間に、最も本物の感情を向けさせるための、究極の支配行為だったのだ。

 彼は、自らの痛みを、他人を支配するための最強の武器だと知ってしまった。


 ――それは、響の暴力を渇望する、現在の彼の根源的な闇だった。


 

 ~


 

 怜は、呼吸を整え、響の瞳を見つめた。


「俺は、お前の支配を、もっと強く引き出すために……あの女の言葉に汚された嘘を、自分の血で、洗い流したかったんだ」


 響は、怒りと動揺を必死に抑えつけ、怜の腕の傷口を再び消毒し、丁寧にガーゼと包帯で覆い始めた。彼の動きは、先ほどよりもずっと慎重で、まるで脆いガラス細工を扱うかのようだ。


「……御前のその行動は、敗北を意味する」


 響は、手当てをしながら、低い声で言った。


「敗北? 冗談じゃねえよ」


 怜は、天井を見上げたまま、嘲笑する。


「御前が自ら証明に手を出すことは、私の存在を否定することになるんだ。御前が私を必要としなくなった瞬間、この関係は終焉を迎える」

「フッ……お前らしいな。自分の居場所がなくなるのが怖いんだろ」


 響は、手当てを終え、怜の血のついていない方の腕を強く握った。


「憐。ゆめゆめ忘れるな。御前と私との関係は、まるで毒を持った鎖だ。御前は、その鎖を私に繋がれることで、自由を感じる。だが、鎖を外そうとする瞬間、御前は無価値という名の底なし沼に沈むことを知っている」

「そして、お前はどうだ、響」


 怜は、静かに響の言葉を返す。


「お前は、この鎖の反対側の鍵だ。俺を繋ぎ止めることで、お前の中の獣を飼いならしている。もし俺が死ねば、お前の獣は、この鎖を断ち切られた怒りで暴走し、社会という壁を破壊するんだろう」


 怜は、響の顔を見上げ、挑戦的に尋ねた。


「なあ、響。お前は俺を、自分の醜い衝動を映し出すための、割れない鏡として側に置いているんだろ? 俺が自分から割れたら、お前はもう自分の真実を見られなくなる。それは、お前の支配の終焉だ」


 響は、その言葉の鋭さに息を飲んだ。そしてここにきて気がついたのだ。怜の自傷行為は、響の暴力衝動を満たすこと以上に、響の存在そのものを人質にとる、最も強力な支配だったのだと。

 響は、痛む怜の腕から手を離し、額をその冷たい額に押し付けた。


「二度と、私を脅かすような真似をするな、逃げるなよ」

「逃げねぇよ」


 怜は微かに笑った。


「俺は、お前に罰を要求するために、生きているんだ。ただ、今日の俺は、嘘に汚されすぎた。だから、真実の痛みが、何よりも必要だったんだ」


 

 §


 

 怜の自傷による傷は、響の迅速で正確な手当てと、彼自身の驚異的な回復力によって、一週間で目立たぬ程度にまで回復していた。


 しかし、その一週間、二人の間には、緊張に満ちた静寂が流れていた。


 怜は、自傷行為の代償のように、溜まっていた仕事に文字通り追われていた。連日の徹夜と、昼間の完璧な仮面の維持。それは、夜の儀式なしで、彼の精神をすり減らすのに十分すぎる罰だった。

 一方の響も、昼間は怜の周辺の警戒を強化し、夜は怜の傷と精神状態を考慮して支配を控えていた。

 響にとって、この一週間は異様に長く、退屈で、そして恐ろしいものだった。怜が自分を必要としなくなる未来を突きつけられた響は、夜の支配から遠ざかることで、自身の衝動が制御不能になるのではないかと、絶えず不安を感じていた。



 金曜の夜。

 神代怜はようやく全ての仕事を片付け、指定された時刻に洋館へ戻った。ダイニングルームには、久々に二人きりのための食事が用意されていた。銀食器とクリスタルのグラスが、控えめな照明を反射して輝いている。

 怜は、静かにグラスに注がれた赤ワインを傾ける。彼の顔には、この一週間分の疲労と、満たされない飢餓感が混ざり合っていた。


「久しぶりだな、響。こうして二人で料理を嗜むのは」


 怜は皮肉めいた笑みを浮かべた。


「そうだな。御前が一週間前、勝手に左腕を切り刻んだせいでな」


 響は素直な口調で答えた。


「仕方ないだろ」


 怜は、平然と言い放った。


 「それよりさ、このワイン、少し酸味が強いな。まるで、高三の時の、あの体育祭の時の泥臭い敗北を思い出させる」

「体育祭か。……ああ、覚えているが」


 響は視線を落とし、微かに目を閉じた。

  高三の秋。

 彼は、普段無敗の神代怜がアンカーで転倒し、人生で初めて「敗北」を喫した瞬間を、校舎の窓から見ていた。砂埃の中で膝を抱える怜の姿は、周囲の慰めを一切拒否し、まるで自らを作り上げた鏡が砕けたかのように見えた。その時、響の胸の内側に、強い高揚感が走った。


「……御前はいつも勝利していたが、あの年は珍しくリレーで転倒し、人生初の敗北を喫したな。それで機嫌が悪くなり、美術室で石膏像を眺めていた」

「覚えてるのかよ。最悪だったな。あの時、俺は人生初の敗北を喫して機嫌が悪かったんだ」


 怜も思い出し笑いを零す。


「まったく、あの頃は誰も彼もが純粋だったな」


 二人は、一瞬だけ和やかな空気に包まれ、それから食事に集中し始めた。ナイフとフォークの音だけが響く。

 しばらくして、怜は肉を口に運びながら、響を揶揄うように言った。


「そういえば、高三の頃の話だ。お前とこんな関係になる前、俺、いろんな奴に言い寄られてたんだぜ?」


 怜はふっと鼻で笑う。自慢するような、しかしどこか虚ろな調子だった。


「変だよなぁ。いや、変じゃないか。男子校だったし。俺、まあまあいけてたし。まあ、男同士であれするってのも意味わかんねえけど」


 響の手元の動きが、ぴくりと止まった。彼はフォークを皿の上に置き、怜をまっすぐに見つめた。


「それは、単なる肉体的欲求だろう。御前が言うように、男子校という特殊な環境下で、発散対象として狙われたに過ぎない」


 響は静かに問うた。


「しかし、怜。御前は一度でも、誰かを好きになったことはあるのか」

「好き、だと?」


 怜は、反射的にその言葉を拒絶するように口角を上げた。その答えに迷いが生まれたことに、怜自身が動揺した。


「……お前こそ、どうなんだよ、響」


 怜は逆に問い詰めた。


「お前には、恋なんて軟弱な感情が生まれたことはあるのか? 誰かを求めて、支配とは違う形で満たされたいと願う感情が」


 響は、真っ直ぐに怜の目を見返した。その瞳は、深淵を覗くように冷たい。


「さあな。答えられない」


 響の素直な、しかし空虚な返答は、怜の胸に突き刺さった。二人は、互いに同じ種類の欠落を抱えていることを、この瞬間、認識した。


 食事が進むにつれ、響は怜の表情を窺った。怜の傷は治ったが、その瞳の奥の飢餓感は、一週間前よりも深く鋭くなっているように見えた。響は静かにフォークを置いた。


「怜」

「何だ」

「今夜は、身体を休めた方がいい。御前の疲労は、私には手に取るようにわかる」


 響の言葉は、表向きは怜を気遣うものだったが、その真意は「私が最高の状態で支配するために、貴様は完璧に存在しろ」という支配者の傲慢な論理だった。しかし、怜には、響の言葉の中に、一週間夜の支配を中断したことによる臆病さと、気遣いの皮を被った逃避が透けて見えた。


「……夜の儀式は、また別の機会でいい」


 響はそう言って、ワイングラスに手を伸ばした。

 その瞬間、怜の顔から表情が消えた。彼の瞳は、氷のように冷たく、激しい怒りを帯びた。


 キンッ!


 ガラスが響の肩のすぐ後ろの壁に当たり、砕け散る。鮮やかな赤ワインが、白い壁と響の黒いシャツに飛び散った。響は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。彼は、怜のこの一週間分の疲労が、単なる感情の爆発ではないことを、この暴力的な行動で悟った。


「憐!」


 響は立ち上がった。


「俺に、中途半端に優しくなるな!」


 怜は、テーブルに両手を突き、響を睨みつけた。彼の呼吸は荒い。


「お前は、俺が痛みを求める理由を理解しているはずだ。昼間の世界は、俺の嘘で満たされている。一週間の仕事は、その嘘を現実だと錯覚させるには十分すぎる時間だ」


 怜は声を荒げた。


「俺は、この体とこの精神が、確かにここに在るという証明がなければ、すぐに空っぽに戻ってしまう! お前の暴力こそが、俺を本物の神代怜にしてくれる、唯一の真実だ!」


 彼の顔には、怒りと、助けを求めるような切実な渇望が混ざり合っていた。


「お前の支配は、俺の存在証明だ! ――ッそれを気遣いという名で遠ざけることは、俺を殺すに等しい! ……今すぐ始めろ、響。俺を、壊せ!」


 響の黒いシャツに飛び散ったワインは、まるで一週間前に流れた怜の血のようだった。響の瞳の奥で、押さえつけられていた獣が、ついに解放される。怒りと、そして、自分の存在を求められたことへの、歪んだ興奮が響を支配した。

 響は、テーブルを飛び越え、怜の細い顎を掴んだ。

 そして衝動的にその唇を噛んだ。一瞬で呼吸を奪われた怜は響の体を叩く。しかし響の大きな体はびくりともしなかった。響は何度も何度も舌を舐めまわすように口内を犯した。口を離すと、怜の顔色はすっかり赤く染まっていた。


「御前は、本当に手に負えない最高の素材だな。……怜」


 響の顔に、怜の要求に応じる支配者の冷酷な笑みが浮かんだ。彼の指先が、怜のシャツのボタンに触れる。


「ただし、今夜は、貴様が自ら命を弄んだ罰として、一切の猶予も慈悲もないからな」


 響は、テーブルを飛び越える際に引き裂いた怜のネクタイを、そのままゴミのように放り投げた。ワインのシミが広がる黒いシャツの胸元が、怒りで荒く上下する。彼は、怜の細い顎を掴んだまま、強引に立ち上がらせた。


「御前は、私の猶予と慈悲が、どれほど残酷なものかを知るべきだった」


 響は冷酷に言い放つと、怜をダイニングルームの壁に叩きつけた。ガツン、と頭を打った衝撃に、怜の瞳が揺らぐ。響が力を緩めたその瞬間、怜は一瞬の隙を突いて、響のシャツの襟元を掴み返そうと手を伸ばした。


「まだ抵抗するつもりか、怜!」


 響は即座にその腕を弾き、怜の両手首を掴み上げた。

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