Episode6 【痛み】
Episode6【痛み】
§
「貴方は、非常に正直な方だ」
怜はそれだけを言い、沈黙した。彼の視線は、窓の外の一点に固定されているが、何も見ていないように見える。
――この娘は、なぜ……なぜ、私に真実を要求するのだ?
彼の脳裏に、昨夜、響に「俺を壊せ」と叫んだ自身の姿が蘇る。あの時の自分は、自分の存在を証明するために痛みを選んだ。だが、昼間のこの空間では、葵の「正直さ」が、彼の築き上げた嘘を、静かに、しかし確実に崩し始めている気がした。
「神代さん……?」
葵が心配そうに彼の名前を呼ぶ。
「……いえ、失礼」
怜はかろうじて表情を取り繕ったが、その笑顔は、いつもの完璧なものではなかった。どこか強張っていて、仮面の端がひび割れたように見えた。
「少々、今日のミーティングで疲労が溜まっているようです。……私は、これで失礼します」
「あ、でも、まだコーヒーを……」
マスターが声をかけるが、怜は聞かない。
彼はテーブルに、コーヒー代とは比べ物にならないほどの高額な紙幣を無造作に置き、すぐに店を出ようとする。
「あの! 神代さん!」
葵は思わず声を上げた。怜は、扉の近くで立ち止まり、振り返った。
「その完璧な仮面を外しちゃいけないと、誰が言ったんですか? 人間、不完全でいいんですよ!」
葵の言葉は、彼にとっては最も甘美な誘惑であり、同時に、最も恐ろしい呪いだった。
怜は、その言葉から逃れるように、一瞬だけ、目を細めた。
「……貴方の善意に感謝します、美崎さん」
怜は、そう冷たく言い放つと、迷うことなく扉を開け、熱い日差しが照りつける街の中へと消えていった。彼の背中は、まるで、自分の唯一の居場所を急いで守りに行くかのように、焦燥感に満ちていた。
後に残された葵は、テーブルの上の高額な紙幣と、飲みかけのコーヒー、そして、怜が一瞬見せた本物の苦悩の残像を見つめながら、静かに息を吐いた。
怜は喫茶店を出てすぐ、人気のない路地に車を停めさせ、響に連絡を入れた。声は、昼間の優雅さも、夜の挑発的な熱も失い、苛立ちに満ちていた。
「響、今日の予定は全てキャンセルだ。俺は洋館に戻る」
『またか? 何事だ、怜。今日のミーティングはどうした』
電話の向こうの響の声は、依然として冷静だ。
「うるさい。俺は気分が悪い」
怜は苛立ちを隠さず、低い声で続けた。
「喫茶店で、余計なことを話す女がいた。俺の完璧な仮面が、嘘だと見抜いたようなことを言いやがった」
響の側で、一瞬の沈黙が走った。
『……なるほど。で御前はどうしたいんだ』
「その女の正直さが、俺の腹の底を刺激した。俺がどれだけ完璧な偽物を演じたか、証明した直後だというのに……このままでは、俺の空っぽの部分が、また膨らみそうだ」
怜は、さらに追い打ちをかけるように言った。
「響、今夜は昨日よりも激しく、残酷な罰を用意しろ。俺の存在を脅かす、あの女の正直な言葉を、お前の暴力で完全に上書きしなければならない」
『御前……、危険な要求をしている自覚があるのか? 御前は本当に壊れるかもしれないんだぞ』
「上等だ。壊れるなら壊れてやる。だが、お前が俺を壊すことでしか、お前の獣も鎮まらないだろ」
怜の声は、追い詰められながらも、どこか狂喜に満ちていた。
『……わかったよ。御前の要求通り、準備しておく。ただし、今夜は全て私の支配に従ってもらうからな』
電話が切れると、怜はシートに深く身を沈めた。
心臓の動悸が激しい。それは恐怖ではない。
今夜の罰によって、昼間に感じた嘘の動揺を、真実の痛みで消し去れるという、歪んだ安堵からくるものだった。
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夕刻、洋館に戻った響は、寝室に、怜が要求した罰の準備を整えた。いつもの拘束具では怜は抜け出そうとする。今夜はさらに強固なものに、道具はより冷酷なものに変えた。こうして完璧な舞台が完成した。
響は、苛立ちと期待がない交ぜになった感情を抑えながら、怜を迎えに寝室を出た。
「怜。準備が整ったぞ」
響の声が廊下に吸収される。
返事がない。
「……怜?」
響は広い洋館の一室一室を探し始めた。――寝室、書斎、どこを探しても怜の姿はない。
響の心に、嫌な予感がよぎった。怜は、勝手に罰の準備を始めるようなタイプではない。彼は常に、響に「与える役」を求め、「受ける役」に徹する。
響は、嫌な予感を抱えつつ館の奥のバスルームへと向かった。ドアの向こうから、水の流れるような、微かな音が聞こえる。
「怜! 何をしている!」
響は、ドアを乱暴に開けた。
バスルームの中は、蒸気で満たされ、ほの暗い。中央のバスタブには、水が満たされ、かすかに赤い色が滲んでいる。
そして、そのバスタブのそばの白いタイルに、怜が、横たわっていた。
服は着ている。しかしいつものスーツではなく部屋できるタートルネックとシンプルなスラックス。その彼の体は、さらに新しい傷を負っていた。白い腕から、鮮血が止めどなく流れ、バスタブに溜まった水へと吸い込まれ、ゆっくりと薄い赤色を広げている。彼の傍らには、普段、書斎で使うはずの、鋭利なカッターナイフが落ちていた。
怜の顔は、安らかで、まるで眠っているかのようだった。しかし、その口元には、自らの意思で存在の証明を試みた、歪んだ、微かな勝利の笑みが浮かんでいた。
響の冷静な仮面は、目の前の光景によって完全に引き剥がされた。
怒り、混乱、そして何よりも、自分の獲物が他者の手で、ましてや自らの意思で損なわれたことへの、獣のような所有欲と激しい苛立ちが彼を襲う。
「怜! 何を馬鹿なことを……!」
響はバスタブに流れ込む赤い水も気にせず、タイルに横たわる怜の元へ膝をついた。彼の体は冷え切っている。
響は、まず落ちていたカッターナイフを蹴り飛ばし、反射的に怜の手首の傷口を強く押さえつけた。その手が、血で濡れていく。普段、怜を苛烈に痛めつける響の指先は、今、命を繋ぎ止めようと震えていた。
「御前……! 私の許可なくッ!」
響は怒鳴りながらも、怜の体を抱き上げ、バスタブから遠ざけた。彼は一瞬で状況を理解し、冷静な判断を再構築する。この場に医者を呼ぶことは、二人の関係と社会的地位を崩壊させる。響は怜をタオルでくるみ、力の限り叫んだ。
「応急処置キットだ! 急げ、今すぐ私に渡せ!」
声は届いたかわからない。しかしまだどこかしらに秘書はいるはずだ。
響は、傷口を圧迫し続けながら、怜を寝室に運び込み、用意させたキットで傷口を縫合し、止血を施した。
その間、彼の動作は荒々しかったが、正確だった。彼が怜に抱くのは、決して愛情ではない。――自分の唯一の安息の場を失うことへの、獣の恐怖だった。少なくとも、今の段階では。
数時間後、夜明け前に響の手当てが功を奏し、怜は静かに目を覚ました。
顔色は蒼白だが、意識は戻っている。怜が薄く目を開けると、彼の側で椅子に座り、疲労と怒りに満ちた目で自分を見下ろす響の姿があった。響の白いシャツは、怜の血で赤く汚れている。
「目覚めたか、クソ生意気なアホめ」
響の声は低く、抑えきれない怒りを孕んでいた。
「なぜあんなバカなことをした!」
響は、怜の細い首筋を掴んだ。その力は、容易に怜の呼吸を止めることができるほど強い。
「御前は、自らの存在証明を、俺に委ねる義務がある! 勝手にそれを放棄するなど、許されるとでも思ったのか!」
「……ふふ」
怜は、激しい痛みに耐えながら、弱々しく笑った。
「”俺”……だってさ。お前気づいてた? ガチで怒るとお前って自分のこと”俺”って言うんだ」
「なにを――」
「……お前が、俺を本気で怒鳴ってくれた。本物の感情を、俺のために出してくれた……これで、また証明されたよ」
「黙れ!」
響はさらに力を込めた。
しかし、怜のその瞳は、もはや響を見ていなかった。彼の意識は、遠い過去の闇へと引きずり込まれていた。




