Episode5 【新たな出会い】
Episode5【新たな出会い】
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夜が明け、洋館の窓から静かな朝の光が差し込んでいた。
神代怜は、全身に走る激しい痛みと、薬の抜け切らない鈍い倦怠感に耐えながら、天井を見上げていた。昨夜の激しい情事の痕跡が残る乱れたシーツの上で、彼はゆっくりと深呼吸をする。
「……ふぅ。……おい、響」
怜が深く息を吐き、ようやく掠れた声で口を開いた。
一ノ瀬響は、完璧に身なりを整えたダークトーンのスーツ姿で、既にベッドサイドの椅子に腰掛けていた。手には細い煙草が挟まれ、彼は煙をゆっくりと天井に向けて吐き出していた。その冷徹な美貌は、昨夜の凶暴な獣の面影を完全に消し去っている。
「何だ」
響は、冷たく応じ、無造作にベッドの上に転がっていた分厚いローブを、怜の裸の体めがけて投げつけた。
「せめてそれくらい着ておけ。風邪でも引かれて、昼の舞台に穴を開けられるのは面倒だ」
怜は、顔に直撃したローブを払い除け、いつもの生意気な笑みを浮かべた。
「相変わらず、気遣いが雑だな。もう少し優しく投げられないのか、加害者様」
「貴様に優しさを求める権利はない」
怜は、ローブを羽織りながら、全身の痛みに顔を顰めつつ、ゆっくりと体を起こそうと試みた。
「あのさ、響。今日の罰は、確かに最高だったよ。俺の意思を奪って、本物の絶叫を引きずり出した。お前も、快感の限界突破を果たせて、さぞかし満足しただろ?」
「貴様の生意気な顔が歪み、制御不能な喘ぎを上げるのは、いつ見ても反吐が出るほど価値がある」
「だろうな。だが、一つ訂正がある」
怜は、痛みを堪えて床に手を突き、響の目をまっすぐ見据えた。その目には、夜の激痛を乗り越えた者だけが持つ、強い渇望が宿っていた。
「次からは、薬は無しな」
響の指先で持たれていた煙草が、一瞬だけぴたりと止まった。彼は、苛立ちを隠さずに煙草を深く吸い込む。
「……何を言っている。薬がなければ、御前は私の支配に最後まで抵抗し、行為を台無しにするだろ。それに、御前自身の肉体的な安全のためでもあるんだ。もしものことがあったら、私が面倒だろうが」
「ふざけんな。俺が求めてるのは、安全な快感なんかじゃない。薬で意識を奪われた偽物の幸福もいらない」
怜は、激痛に耐えながら、獰猛な笑みを浮かべた。その表情は、まるで最高の獲物を前にした獣のようだった。
「薬なんて、俺の意思を奪う、ただの『逃げ』だ。お前は俺の意思を、屈服させたいんじゃないのか? だったら、逃げ道なんていらないだろ」
「――御前は、私に、御前を意識のあるまま壊せと命令しているのか。それは、御前自身が耐えられないほどの苦痛を伴う。なぜ、そこまで求める」
「決まってんだろ」
怜の目が、狂気的な光を帯びた。
「俺が意識のあるまま、お前の支配に屈服する。そして、お前が俺を肉体的にも精神的にも追い詰める。それが、俺たちが本物であることを証明する、究極の方法なんだよ。俺が最後まで抗って、それでもお前に壊される。それが俺の――勝利だ」
怜はニヤリと笑い、続けた。
「……ほら。お前は俺のこの要求を、拒否できないだろ? だって、お前のその獣が、俺の言葉に興奮してるのが、手に取るようにわかるぞ?」
響は、手元の煙草を、力任せに灰皿に押し付けた。彼は、怜の要求が、響の内なる暴力的な衝動を、最も純粋な形で刺激するものだと理解していた。薬という安全装置を外すことは、響自身の行為の残虐性を最大限に引き出すことになる。
「……ちっ。わかったよ。御前のその傲慢な要求、受け入れてやる」
響は静かに答えた。その声には、怒りと、抗いがたい興奮が混ざり合っていた。
「ただし、その結果、御前が二度と立ち上がれないほどの苦痛を味わったとしても、それは御前自身の責任だ。次からは、昼の商談に響くような醜態は許さないからな」
「上等」
怜は、痛みの中で、最高の歓喜を感じた。彼は、昼の偽物の舞台を、夜の真実の罰に変えるための、次なる共犯の契約を、再び響と交わしたのだ。
§
2030年代後半。
東京の摩天楼は、資本の論理によってその高さを競い合っていた。AIとデータ解析がすべてを支配するこの時代、富は情報を持つ新興勢力――人々が皮肉を込めて呼ぶ「デジタル・アリストクラシー」の手に集中していた。
この階級にとって、感情はノイズであり、論理と完璧な仮面こそが、社会を生き抜くための武器だった。
この時代の頂点に登り上がる若き二人の天才が、神代怜と一ノ瀬響である。
神代 怜は、「氷の神童」の異名を持つ投資コンサルティングファームのCEOだ。彼の存在は、市場の神話そのものだった。いかなるリスクも一瞬で見抜き、感情論を排した冷徹なロジックで巨額の富を動かす。メディアは彼の完璧な笑顔と、社交的ながら決して本心を見せない鉄壁のパーソナリティを絶賛した。
そしてもう1人、AI・データソリューション企業「ノア・システムズ」の創業者、一ノ瀬 響。旧華族の血筋を引く彼は、怜とは対照的に寡黙で、メディア露出を極端に嫌う。
だが、その技術力は怜の資本戦略を現実のものとする、まさに「時代のインフラ」そのものだった。
私、美崎葵にとって、街の喧騒から少し離れたこの喫茶店「カメリア」は最高の居場所だった。
午後のこの時間、店内に響くのはマスターのサイフォンから立ち上る湯気と、クラシックの穏やかな調べだけ。「デジタル・アリストクラシー」だなんて、仰々しい言葉が飛び交うけれど、結局、街の空気はいつも微熱を帯びている。熱狂と、その裏側にある漠然とした不安。
最近のニュースと言えば、決まってあの二人の話だ。
「神代怜と一ノ瀬響。また、組んで巨大なファンドを立ち上げたんだってね」
カウンターの向こうで新聞を読んでいたマスターが、言った。葵はカウンターに顎を乗せてマスターを見る。
「神代さんのニュース、本当に多いですよね。今日もネットのトップ記事ですよ。『氷の神童、次なる一手』って。あんな完璧な人、本当にいるのかな」
私は、素直な感想をこぼす。
マスターは笑う。
「いるからニュースになるんだろう。まあ、あんな人間、私たちとは住む世界が違うさ。神代さんは、まるで絵に描いたような成功者だ」
「ふーん」
私には、その「完璧」さが逆に恐ろしく映る。世間は彼の笑顔を礼儀正しいと評価するけれど、写真で見る彼の瞳には、温度が感じられない。まるで、人間ではない、高性能なAIが微笑んでいるみたいだ。あんな完璧な人が、何の苦しみもなく、何の嘘もなく生きているなんて、私にはどうしても信じられなかった。
「失礼」
チャイムが鳴り、店の扉が開く。午後の穏やかな空気と静寂を破ったのは、低く、落ち着いた声だった。
私の視線は、反射的にそちらへ向かう。
そこに立っていたのは、常連客の一人、神代 怜だった。
今日も、完璧だ。チャコールグレーの高級そうなスーツを品良く着こなし、髪は乱れ一つなく整えられている。一瞬、店内の光が彼の顔に差し込むが、その表情は今日もまた、周囲から一歩引いた、穏やかな、しかし感情の読めない微笑みを浮かべている。
彼は、この「カメリア」の静けさを気に入っているようで、半年前から時折やってくる。最初は誰もが彼に気圧されていたが、マスターの気さくな人柄もあって、いつしか彼は店の風景の一部になっていた。
「いつもの、お願いします」
怜は、マスターにだけ聞こえるほどの声量で注文した。
そして、彼がいつも座る、窓際の目立たない席へと向かう。彼の動きの一つ一つが、無駄がなく、優雅だった。
「神代さん、今日も完璧だねぇ」マスターが小声で私に言う。
「……はい」
私は、長いポニーテールの毛先を指に巻き付けるようにいじった。
私と怜は、半年前、私が彼の落としたハンカチを拾って声をかけたのがきっかけで、ごくたまに会話を交わすようになった。会話の内容はいつも、世間話や最近のニュースについてだけだ。怜は私の座るカウンター席のすぐそば、窓側のソファー席に1人座っている。
彼は私と目が合うと、一瞬だけ、本当に一瞬だけだが、その完璧な笑顔の裏に、何か諦めにも似た疲労を滲ませたように見えた。
「やあ、美崎さん。今日もここで勉強ですか」
「はい、神代さん。お仕事、お疲れ様です」
怜はテーブルに置かれた新聞を軽く指し示した。トップ記事には、昨日の田崎との大規模な投資案件が報じられている。
「また、世間を騒がせてしまったようですね。美崎さんは、こうしたニュースをどうお感じになりますか?」
「まあ、流石神代さんって言ったところですね」
「それだけ?」
「なにか?」
と問い返すと、怜は一度固まってから軽く笑い出した。
「いやぁ、ね? 君のような真面目な学生さんだったら、お世辞とかなしに思ったこと言ってくれると思ったんですけどね」
そう言われて私は少しムッとする。
――何だか馬鹿にされた?
「……正直に言うと、恐ろしいけど。神代さんのような人が次々と成功していくのを見ると」
「恐ろしい、ですか?」怜は少し意外そうな表情を見せた。
「うん。神代さんは、誰もが認める完璧な成功者だけど……でも、私は、その完璧さに嘘を感じる。――だって、人間って、そんなにブレずに、迷わずに、成功だけを掴めるものなのかなって?」
葵はカウンターから怜の方を向き、椅子から身を乗り出した。
「ニュースでは、神代さんたちが世界をより良くしているって言うけど、私には、ただ世界の格差が広がる音が聞こえるだけ。私たちのような、完璧に賢くない人間が、どんどん切り捨てられていく気がして」
怜の顔から、微かに、ほんの一瞬だけ、完璧な笑顔が消えた。その一瞬の揺らぎを、葵は見逃さなかった。
「つまり、貴方は、私を偽物だと?」
怜は静かに問い返した。
「……すみません。でも、神代さんは、まるで自分の感情を捨てて、社会が求める成功というプログラムだけを実行しているように見えるんだよね。あまりに完璧すぎて、何か大切なものを犠牲にしているようにしか思えなくて」
怜は、いつの間にかテーブルに運ばれたカップを口に運び、その熱で自身の顔を隠した。
「犠牲……ですか。確かに、完璧を求めるには、多くのものを切り捨てる必要がありましょう」
「私、昔、一度だけ完璧な嘘をついて、大切な人を守ろうとしたことがあるんです」
葵は目を伏せ、カップの縁を指でなぞった。
「その嘘は、周りから見れば優しさだったのかもしれない。でも、結局、その嘘は、私自身と、守りたかったその人を、もっと深く傷つけた。嘘は、たとえ善意から始まっても、魂を空っぽにする毒なんだなってその時知った」
葵は顔を上げ、怜を見た。その瞳には、過去の傷と、それゆえに培われた、真実への強い渇望が宿っていた。
「だから、わかるの。完璧な仮面を被っている人ほど、その内側で、何か大きな痛みを抱えて、それを必死に否定しようとしているんじゃないかって。――神代さんのその完璧は、何かを否定するための、必死の盾に見える」
怜は、カップをテーブルに置いた。
カチャリ、と静かな音が店内に響く。
彼は、この正直な大学生の眼差しから、決して逃げることができないと感じた。この目の前で、自分の真実が、剥き出しにされているかのようだった。
「……美崎さん。貴方は、非常に正直な方だ」
怜は、それ以上何も言わなかった。ただ、その口元に浮かんだのは、いつもの完璧な笑顔ではなく、疲労と諦めが混じったような、本物に近い表情だった。
葵は、彼のその表情を見て、直感的に悟った。
この完璧な成功者は、自分と同じように、深い傷を負っている。そして、その傷を隠すために、世界で最も分厚い嘘を纏っているのだと。




