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Episode3 【契約】

 Episode3 【契約】


 §


 急に何を言い出すんだ、この人は、と響は眉を寄せる。


「俺に向ける、あの獣のような目じゃなくてさ。何にも興味がない、ガラスのような目。まるで、俺たち二人の間で交わされる真実を、簡単に否定できるような顔だろ」


 怜はくるりと体の向きを変え、響にネクタイを渡す。

 響は、怜のネクタイを手に取り、怜の首筋に触れないよう細心の注意を払って、ゆっくりと結び始めた。その動作は紳士的で、まるで夜の行為が幻であったかのようだ。


「それが、この関係を維持するために必要なことだろ。何を今更」

「ちぇ。まあ、俺の存在を証明できるのは、夜のお前だけだから仕方ないけどさ」


 怜は、響の手つきに身を委ねながら、静かに囁いた。


()()の俺は、お前の手を煩わせることはしない」


 響は、怜のネクタイを結び終え、その襟元を整えた。彼の目は、怜の首の痕を一瞬だけ捉える。響は怜の顎を軽く持ち上げ、夜とは違い、ただ冷たく、しかし強い瞳で怜を見つめた。


「上等だ。いつものように完璧な神代怜を演じてみろ」


 怜は、全身の痛みを無視して、最高の優雅な笑みを浮かべた。その笑顔は、彼が演じる「神代怜」そのものだった。


「了解。俺の加害者」


 二人は、洋館の扉を開け、日常という名の舞台へと踏み出していった。

 誰も知らない、二人の秘密を完璧に隠して。



 ~


 

 二人は、響が手配した高級車で六本木のレストランへと向かう途中だった。後部座席には2人が座り、ハンドルは響の秘書が握っている。怜は優雅なスーツに身を包み、まるで昨夜の激しい痕跡が嘘のように、完璧な「優等生」の顔を演じていた。

 車内の静寂は、いつも二人の間の緊張感を際立たせる。


「なあ、響」

 

 怜が沈黙を破った。声は穏やかだが、


「何だ」

「今日の午後の予定だけどさ、例の投資家とのミーティング、見ててよ」


 響は一瞬、怜の言っている意味が理解できなかった。


「――は?」


 怜はその長い指先に顎を乗せて首を傾げる。


「俺と昼飯食ったら特に予定はないんだろ? だったら俺の営業の仕方を監視しろっつってんだ」


 響は咄嗟にハンドルを握る秘書に目線を送った。ビクリと肩が揺れ、明らかに秘書は動揺する。


「俺がお前の予定を勝手に見たんだ」


 怜は付け加えるように言った。


「今日食事をするところからそう遠くないホテルのスイートルームで商談がある。お前は隣の部屋で俺の盗聴でもしれてばいい」

「――はぁ?」


 どんどん顔が歪んでいく響を、まるで楽しむかのように怜は笑う。


「俺が昼間の舞台で、どれだけ完璧に神代怜を演じきったか。その偽物の度合いに応じて、お前は夜、俺の嘘を破壊するんだろ。完璧に演じきった俺には、もっと強烈な罰が必要になる」


 正直、怜の要求は、さらにエスカレートしていた。彼は、自らの偽りの演技を完璧にすることで、響からより過酷な肉体的、精神的な罰を引き出そうとしていたのだ。

 響は無言で拳を握りしめた。

 怜の倒錯した頭脳が、この関係を常に新しいレベルへと引き上げようとしていることに、苛立ちと同時に抗いがたい興奮を覚える。


「御前は……本当に、底なしの業を背負っているな」

「お前の罰でしか満たされない俺も、俺に罰を与えることでしか満たされないお前も、どっちもどっちだろ」


 怜はそう言い放ち、シートにもたれかかった。そして、響だけが聞こえる小さな声で囁いた。


「いいか、響。今夜、次の舞台を用意して。俺が昼間、どれだけ完璧な神代怜を演じるか。それに見合った、最高に痛くて、気持ちいい罰を用意しておくんだな」


 響は、その要求を拒否できなかった。


「……わかったよ」


 響の低い声が、車内に響いた。


 

 ~



 六本木の会員制レストラン「リュミエール」。

 きらびやかなシャンデリアが輝き、窓からは都心のパノラマが広がるその空間は、上流階級の人間たちが仮面を被り合う社交場だ。

 怜と響は、まるで絵画から抜け出してきたかのような優雅なカップルとして、静かにその場に溶け込んでいた。加えて、元から友人関係であることを公表している2人を、変な目で見る人間はいなかった。

 怜の顔には、朝までの激情の痕跡は微塵もない。彼の笑顔は、人好きのする、しかし誰にも踏み込ませない完璧なものだった。


「神代さんも一ノ瀬さんも、いつも素晴らしいわね。若くしてこれだけの成功を収めているのに、謙虚でいらっしゃる」


 隣のテーブルで優雅なティーカップを傾ける老婦人が、そう言って二人を見遣る。

 怜はにこやかに会釈を返した。


「恐縮です。これも皆様のご指導あってこそ。まだまだ未熟者ですが、精一杯精進してまいります」


 柔らかな声、控えめな物腰。しかしその瞳の奥には、すべてを見透かすような冷たい光が宿っている。

 響は、そんな怜の姿を傍らで観察していた。完璧な社交辞令。相手の言葉の端々から情報を引き出し、自身の利益へと繋げる術。まるで、感情というものが一切存在しないかのような、精巧なロボットのようだ。


 ――相変わらず、御前は……。


 響は内心で舌打ちをした。怜のこの完璧すぎる演技には、いつ見ても驚かされる。

 俺はこんな男を相手に付き合っているのかと思うと頭が痛くなった。


「一ノ瀬さんも、いつもながら素敵ですわね。神代さんと並ぶと、絵になりますこと」


 響にも向けられる称賛の言葉。

 響は、口元に薄い笑みを浮かべた。その笑みは、怜と同じく、誰にも本心を見せない鉄壁の仮面だ。


「お褒めにあずかり光栄です。彼にはいつも助けられていますので」

「まあ、お互い様ですよ、響」


 怜は響の肩に手を置き、親密な友人であることを示唆するような仕草を見せた。その指先が、一瞬だけ響のスーツの生地を掴む。そのわずかな圧力で、怜は響の腕に、昨夜刻まれた自身の噛み跡を思い出させているかのようだった。


 ――……この生意気な男め。


 響は、その挑発に気づきながらも、何も言わない。この場所では、あくまでも「親しい友人」という設定を演じきらねばならない。

 ランチが運ばれてくる。怜は、フォークとナイフを優雅に操りながら、テーブルの向かいに座る響に、まるで他人行儀な口調で尋ねた。

 響は、憐が完璧な笑顔でワインを口に含む姿を眺める。それから響は静かに自身のグラスに手を伸ばした。

 昼の仮面の下で、夜の業火がすでに燃え上がっているかのようだった。


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