Episode2 【壊れた鏡の部屋】※
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Episode2 【壊れた鏡の部屋】
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肉体の繋がりが終わり、部屋には荒い息遣いと、重たい沈黙だけが残った。
響は、喘ぎながらも満足そうに目を閉ざしている怜の横顔を見つめる。怜の肌には、響の支配の証である生々しい痕跡が無数に残っている。
なぜ、この男は、これほどまでに痛みを、罰を求めるのか。
響の脳裏に、怜が高校生だった頃、一度だけ、ぽつりとこぼした言葉が蘇った。
それは、二人が共犯関係を結んでから半年ほど経った、放課後のことだった。
怜は、誰もいない美術室の隅で、ぼんやりと石膏像を見上げていた。響は、彼に次の「課題」を言い渡すために、そこにいた。
「おい、怜。次の週末は、例の別荘だ。そのつもりで予定を空けておけ」
「……わかったよ」
いつもの生意気な口調とは違い、怜の声は妙に力がない。響は不審に思い、その横顔を覗き込んだ。この頃、視力が急激の低下した響はスクエア型の眼鏡をかけていたが、怜は今も昔も変わらない瞳の輝きをしていた。
「どうした。らしくもない」
「別に。ちょっと、この石膏像、虚しいなって思っただけ」
怜は石膏像の完璧な鼻筋を指でなぞった。その指先は妙に艶やかだ。
「誰もが『美しい』って認める形。でも、中身は空っぽなんだよな。触ると冷たいだけ」
「それがどうした」
怜はフッと乾いた笑いを漏らした。
「俺さ、小さい頃から、ずっとそうだったんだ」
「……何の話だ」
「俺の家は、響の家ほどじゃないけど、それなりにうるさい家でね。親に求められてたのは、『完璧な優等生』の俺。成績は全部満点。スポーツも万能。社交的で、誰にでも愛想がいい」
怜の目線は、虚ろに宙を漂った。いつもの挑発的なギラつきはない。
「親は、俺の成績表や、周りからの評判を『神代家の息子』って鏡に映して、それを自分のものだって喜んでた。俺が本当に何を感じているかなんて、興味ないわけ。俺自身なんて、どこにもいないわけ」
「……」
「だから、俺は、完璧な空っぽの器になった。笑うのも、優しくするのも、全部、親と世間が喜ぶための演技。毎日、毎日、俺の感情じゃないもので塗り固められていくうちに、本当に俺が感じられるものってのが、わからなくなっちゃったんだよ」
響は、ただ沈黙して聞いていた。彼にとって初めて聞く、怜の弱さだった。
「でもある日、初めて痛みを知ったんだ。痛くて、熱くて、どうしようもない。その時、思ったんだ。『ああ、これは俺の感情だ』って」
怜は、初めて心から笑った、と響は感じた。それは、痛みを伴う、歪んだ安堵の笑みだった。
「肉体の痛みだけは、誰も奪えない。それは、俺が確かに『ここにいる』って証明してくれる唯一の真実だったんだ」
その時、怜は響に向き直り、いつもの生意気な、しかし、どこか切羽詰まった表情に戻った。
「だからさ、響。お前は俺の鏡を壊してくれる奴なんだよ」
怜は、響の冷たい指先を握り、自分の頬に押し付けた。
「俺が、世間に求められる『神代怜』を演じている限り、お前はその嘘を暴くために、俺を傷つけてくれ。俺が痛みに悶えるたびに、俺は自分が空っぽじゃないって実感できる。」
「御前は、私に暴力を振るえと、命令しているのか」
「ああ、そうだよ。俺がお前に求めるのは、愛なんかじゃない。俺の存在の証明だ」
響は、怜の歪んだ過去を思い出し、その胸中に複雑な感情が渦巻くのを感じた。
怜は、その体が傷つき穢されていく事で、自身を塗り固めた嘘の自分を破壊し、本当の自分を実感しようとしている。そして、響は、その破壊行為を担う、怜にとって欠かせない共犯者なのだ。
響は、そっと怜の顔にかかった髪を払った。
「……御前は、本当に面倒な人間だ」
「……ふふ、わかってるじゃん」
怜は薄く目を開け、傷だらけの顔で、再び生意気な笑みを浮かべた。痛めつけられた後でさえ、この男は、響を支配しようとする。痛みを耐えた時にできたのだろうか。口の端には乾いた血がついていた。
「俺は、お前の罰でしか、満たされない。――そして、お前もな」
§
翌朝。静寂を取り戻した洋館の寝室に、朝日が差し込んでいた。大きすぎる洋館には幾つもの部屋が並んでいるが、現在使用されているのは、怜と響が『儀式』で使用する部屋のみだった。
シーツは乱れ、昨夜の激しい情事の痕跡が生々しく残っている。
神代怜は、裸のまま仰向けに眠っている。彼の首筋には昨夜のロープの痕が薄く赤く残り、胸元や腰には、響の支配を示す明確な噛み跡や指の跡が散らばっていた。
一ノ瀬響は既に起きており、身なりを整え終えていた。完璧に整えられたダークトーンのスーツ姿は、昨夜の凶暴な獣の姿とはまるで別人だ。響は、ベッドサイドの椅子に腰掛け、未だ深い眠りについている怜を、冷徹な目で見下ろしていた。
やがて怜が、微かな呻きとともに目覚める。全身の激しい倦怠感と、肌に残る痛みが、昨夜の現実を容赦なく突きつける。
「……っ」
「おはよう、怜」響の声は、まるで何事もなかったかのように平静だった。
怜はゆっくりと身を起こし、その視線を響に向ける。その動きに合わせて、いくつもの皮膚の傷が軋んだ。
「……おはよう、加害者様」
怜は掠れた声で挨拶を返し、薄く笑った。いつもの生意気な、しかし、どこか満たされた顔。
「御前のその挨拶は、毎度毎度、気分が悪い」
響は表情一つ変えない。
「別にいいじゃん。事実だろ。ほら、ちゃんと見ろよ。お前が俺に印を刻んだんだ」
怜は、無造作に首筋の痕を指でなぞる。昨夜、最も苦しめられ、最も快感を覚えた場所だ。
「昨夜は強烈だったよ。おかげで、またしばらくは、完璧な『俺』を演じられそうだ」
「その感謝は、次なる罰を要求しているんだろ」
「もちろん」
怜はベッドの上で優雅に足を組み、全身の痛みを耐えながら、優越感に満ちた笑みを響に向けた。寝る前に着せたグレーのローブからは昨日の痕が幾つか見え隠れする。
「俺がお前に罰を求めている限り、お前は俺から離れられない。お前の内に巣食う獣は、俺という受け皿なしには、満たされないんだから」
響は椅子から立ち上がり、怜の前に立つ。
そして、顔を怜の耳元に寄せ、囁いた。
「御前は、自分がいじめられることで、私を支配しているつもりだろう。だがな、怜。御前が私を求める限り、この関係の主導権は、いつだって私が握る」
響の指が、怜の太ももに強く刻まれた噛み跡をなぞった。怜は僅かに顔を歪ませた。
「御前が痛みに呻き、私を感謝で呼ぶたび、私は実感するよ。私が、御前を支配しているのだと」
「へえ、言わせておけば」怜は挑発的に首を傾げた。
「でも、お前が俺の体から離れられないのも、真実だろ?」
二人の視線が交錯する。そこにあるのは、愛でも憎しみでもない、歪んだ共依存と支配欲の炎だった。
どちらが支配し、どちらが支配されているのか。その答えは、二人にとって、もはやどうでもいいことだった。
響は怜から離れ、クローゼットへ向かった。中には、何日分の、世間を欺くための完璧な衣服が用意されている。
「御前は、その体のままでは、一歩も外へ出られないだろ」
響は、怜のために準備された高級なシャツとスラックスを取り出しながら言った。
「わかってるよ。お前が俺に刻んだ勲章を、公衆の面前に晒す趣味はない」
怜はのっそりと立ち上がろうとするが、全身の痛みに顔を顰めた。彼の肌は、昨夜の響の激しい支配の痕跡で赤や紫に変色している。
「まったく。御前は自分の体調を顧みない」
響は冷たく言い放つ。
「体調? これこそが俺の快調の証だろ」
怜はベッドから降り、一歩踏み出すたびに呻きながらも、響の側へ歩み寄った。
「で? 今日の昼飯はどこで取るんだ?」
「予約は秘書に頼んだ。六本木の会員制レストラン」
響は、怜にシャツを投げ渡した。怜はシャツを手に取りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そっか、そっか。俺たちは、社会的には『優秀な若手実業家と、若手創業家』ってことになってるんだっけ?」
「その通り。御前は私を前にしても、挑発的な目で睨みつけたりしない。どこまでも優雅で、無害な存在を演じるんだ」
「はいはい。演技指導、ご苦労様。――俺が一番優秀な俳優だって、お前も知ってるくせに」
怜はシャツを着始めるが、首元にロープの痕が隠しきれないことに気づき、少し苛立たしげに襟を立てた。壁にかけられた鏡は時として『儀式』の時に使うが、時として正常に使用される。
そして怜は、鏡を見たまま不意に言う。
「なあ、響。俺はな、お前のその冷たい目が、世間に向けられるときが一番嫌いなんだ」
「は?」
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