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Episode13 【喫茶店カメリア】

 Episode13 【喫茶店カメリア】


 §

 

 

 季節は晩秋を迎え、東京の街路樹の葉はすっかり色を失い、冷たい夜風に舞っていた。

 時間は午後八時過ぎ。

 都心の喧騒から少し離れた路地裏では、昔ながらのネオンの看板が、ぼんやりとした赤みを帯びて闇を照らしている。


 喫茶店「カメリア」


 その看板は、流行とは無縁の古めかしいデザインで、磨りガラスのドア越しには、温かいオレンジ色の光が漏れていた。

 店内には、時代物の木製カウンターと、年季の入った革張りのソファが並び、マスターが一人、サイフォンでコーヒーを淹れている。ここは、現代のスピードから取り残されたような、静謐(せいひつ)な時間が流れる空間だった。


 一人の男が、店の前に立ち止まった。

 彼は、完璧に仕立てられたスーツ姿だが、その表情には、疲労と、この場に似合わない強い緊張が滲んでいる。メディアで「孤高の王」と称される冷徹な美貌は、今の男の内心の混乱を隠しきれていない。

 彼は、友人の「安め」という冷徹なメッセージと、「行きつけ」という私的な誘い水に引き寄せられ、ここへやってきたのだ。

 男は、慣れない様子で重いドアを押し開け、店内に足を踏み入れた。

 コーヒーの豊かな香りと、ジャズの穏やかなメロディが、疲弊した男の感覚を包み込む。


「あの……」


 男は、遠慮がちにカウンター内のマスターに声をかけた。彼の声は、会議室での威厳とはかけ離れた、わずかに不安定な響きを持っていた。

 男は、携帯の画面に表示されたクーポンをマスターに見せた。


「これを……」


 マスターは無言でクーポンを確認し、男に奥の席を促した。

 男は、店の窓の方に向いた、静かな二人掛けの座席に身を落ち着かせた。

 窓ガラスの向こう、夜の街路には、時折、冷たい風に追われた落ち葉が通り過ぎていく。

 男は、その静かな景色を眺めながら、友人がここへ来て、何を考え、何を求めていたのかを、漠然と考えていた。


 ――あいつは、この静けさの中で、昼間の自分の偽物を、どうやって処理していたのだろう。


 いつの間にか目の前に運ばれたコーヒーからは落ち着くような香りがする。

 男が、コーヒーの湯気を見つめながら、その思考に沈み込んでいると、不意に、カウンターの席から声がかかった。


「あ、やっぱりあなた、一ノ瀬響でしょ?」


 男――一ノ瀬響は、ハッと我に返り、声のした方を見た。

 カウンター席に座っていた、大学生くらいの若い女性が、こちらを向いている。

 女性は、響の動揺を一切気にせず、屈託のない、しかしどこか鋭い好奇心を宿した瞳で微笑んだ。

 

「こないだテレビ出てた。生放送で倒れちゃったって、ニュースになってたよ」


 響は、突然の呼びかけと、自分のことを認識しているという事実に驚き、一瞬、椅子に座ったまま身動ぎできなかった。彼が出演する番組は、経済の専門チャンネルか、報道系の硬い討論番組が主だ。

 一見したところ、ファッション雑誌でも読み(ふけ)っていそうな、ごく普通の大学生が視聴しているとは到底思えなかった。


「ええ、そうですが」


 響は、警戒心を滲ませながら、極めて短い言葉で答えた。

 大学生の女性は、響の警戒など意に介さず、柔らかな笑みを浮かべた。


「やっぱりね。テレビで見るより、生の方が疲れてる顔してるね」


 彼女の指摘は、図星だった。響は、この一ヶ月、疲労を隠すために、ありとあらゆる技術を使ってきた。

 それを一瞬で見抜いた彼女の洞察力に、響はさらに驚かされた。


「あなたは……経済に興味があるのか?」


 響は、話題を逸らすように尋ねた。

 女性は、クスッと笑って首を振った。


「ううん、全然。あたし、イケメンに目がないんだよね。あなたが倒れた瞬間、番組の内容じゃなくて、『うわ、イケメソが倒れた』って話題になってたから、気になって」

「い、いけめそ……?」

「あ、イケメンって意味ね」

「はぁ……」


 その軽薄な答えに、響は張り詰めていた緊張が抜けていくのを感じた。

 彼女は、本当にただのミーハーな視聴者なのかもしれない。

 それが分かると同時に、響は急に、この部外者との会話を切りたくなった。


「そうでしたか。ありがとうございます」


 響は、会話を打ち切るように礼を述べ、再び窓の外の夜景に目を向けた。

 冷たいガラス越しに、ビル群の無数の光が滲んで見える。


 ――憐からのクーポン……。なぜ、こんな安っぽい店に、私を寄越した?


 彼は、怜が送ったメッセージの意味を理解しようと、繰り返し頭の中で反芻した。

 しかし怜の行動の裏にある、感情の真意が、響にはまるで掴めない。


 ――彼は、私が倒れたことを弱いと嘲笑っているのか。それとも、まだ、私を友人として気遣っているのか――。


 響の心は、怜との関係が断絶して以来、出口のない迷路を彷徨い続けていた。

 誰にも相談できない、この倒錯した愛憎の苦しみ。

 ふと、響は、目の前の女性が、自分をただの「イケメン」としてしか見ていないことに気がついた。

 だからこそ、彼は、この場で何を言っても、昼間の世界には影響が出ないという、奇妙な安心感に包まれた。

 響は、再び女性の方を向き直った。

 その顔は、自らに課した孤独な役割から、一時的に解放されたかのような、疲れ果てた表情をしていた。


「……すみません」


 響は、小さく声を漏らした。


「少し、聞いてもらえませんか」


 女性は、カウンター席から振り返り、興味深そうに響を見つめた。

 響は、窓の外の闇をもう一度見つめ、まるで懺悔をするかのように、話し始めた。

 

「私には、非常に大切な友人がいました。その友人は、常に完璧な仮面を被って生きていて、自分自身の存在証明を、誰かからの支配と罰でしか得られない人間だった」


 響は、コーヒーを一口飲み、喉の渇きを潤した。


「……私は、その友人を深く愛していた。けれど、その愛を表現する方法が、彼を罰し、支配することでしかなかった。私たちはどうしようもない関係だったんです。そして、私はある時、彼を傷つけるのをやめようと決意しました。それが、彼を地獄から救う唯一の方法だと信じて……」


 響は、苦しそうに、言葉を切った。


「しかし……、しかし私の『愛』は、彼にとって『ぬるい偽善』でしかなかった。彼は、私から離れていった。彼は今、私以外の誰かに、自分を破壊する役割を求めている。私は……彼が他の誰かに、本物の痛みを与えられることを、恐れている。同時に、彼を苦しめることをやめた私は、もう、どうやって彼を愛せばいいのか、そして、どうやって私自身の衝動を制御すればいいのか、まったく分からなくなってしまった」


 響は、顔を覆い隠すように両手で目を押さえた。その姿は、冷徹なCEOではなく、愛憎の地獄に囚われた、ただの孤独な男だった。

 大学生の女性は、その激しく、倒錯した告白を、一切の驚きもなく、静かに、そして真剣に聞いていた。



 ~

 


 喫茶店「カメリア」の店内には、静かにジャズの調べが流れ、サイフォンから立ち上る湯気の微かな音が、響の重い告白を包み込んでいた。

 マスターは、二人の間に漂う異様な空気に気づいているはずだが、黙々と自分の作業を続けている。

 この古びた喫茶店の空間は、昼間の世界の冷徹なビジネスや、夜の狂気的な愛憎から隔離された、穏やかな中立地帯のようだった。

 大学生の女性は、その激しく倒錯した話を、一度も遮ることなく聞き終えた。

 彼女の表情には、憐れみも、驚愕もない。ただ、深く共感しようとする、知的な静けさがあった。

 暫くの沈黙の後、女性はカウンター席からゆっくりと立ち上がり、響が座るソファの対面に静かに座り直した。


「なるほどね」


 女性は、組んだ両手の指先に視線を落とし、静かに話し始めた。


「すごく、クリアな話。複雑だけど、構造はとてもシンプルだと思うよ」


 響は、彼女の反応に驚いた。一般的な人間であれば、ドン引きするか、激しく同情するかのどちらかだ。しかし、彼女はまるで、臨床ケースを分析するかのように、冷静に受け止めている。


「構造、ですか」


 響は、その言葉を繰り返した。


「うん。あなたと、あなたの友人の関係は、おそらく|共依存《Co-dependency》の、かなり極端な形だよね。しかも、存在証明が『加害・被加害』という役割に固定されている」


 女性は、響の目をまっすぐに見つめた。


「あなたの友人は、完璧な仮面を被ることで、真の自己を完全に抑圧している。その抑圧を解き放ち、自分が存在することを確認する唯一の手段が、あなたからの罰――つまり身体的な痛み。痛みこそが、昼間の()に対する()()だから」


 響は、全身を冷たい水に浸されたような感覚を覚えた。

 彼女の分析は、響自身が言語化できなかった、彼らの関係の核心を正確に突いていた。


「あなたが、その罰に()という要素を混ぜ始めた時――それは、友人にとって()()()()()の純度を下げた、許しがたい裏切りになった。愛とは、昼間の世界で彼に強制された()()そのものだからね。だから彼は、真実の破壊者としてのあなたを、自ら手放した。そして今、新しい破壊者を探している」


 女性は、響の目の前のカップに、そっとお冷やを差し出した。


「あなたが本当に苦しんでいるのは、彼が他の誰かといることではなく、あなたが彼の唯一の真実でいられなくなったこと。つまり、あなたの支配者という役割が失われ、あなた自身の存在証明もまた、揺らいでいるからでしょ?」


 響は、言葉を失った。彼女は、数分の会話で、響が隠し通してきた最も深い孤独を見抜いたのだ。


「……あなたは、一体、何者なんだ」


 響の問いかけに、女性は柔らかく微笑んだ。


「ただの大学生。でも、あたし、()()を被って生きている人の構造を見るのは得意なんだ。そして、あなたの友人の気持ちも、少しだけ、理解できる」


 彼女は、声を潜めた。


「あなたは彼を救おうとした。でも、彼が本当に求めているのは、救済なんかじゃない。彼は、破壊された自分という存在証明なしには、生きられない。だからこそ、彼は今、自立という名目で、より強力な破滅を探しに行っているんだよ」

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