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Episode12 【クーポン】

 Episode12 【クーポン】


 §


 決別から一ヶ月が経過した。

 ビジネス界の潮流は、かつての二人の関係の熱とは裏腹に、極めて冷徹な論理と数字によって動き続けている。

 神代(かみしろ)(れい)が率いる投資コンサルティングファームは、この一ヶ月でさらに勢いを増していた。彼は、一ノ瀬(いちのせ)(ひびき)という「加害者」を失ったことで生じた内面の空虚さを、仕事への狂気的な集中力で埋め合わせようとしていた。

 彼の判断は以前にも増して鋭利になり、その冷酷なまでに的確な投資判断は、競合他社を寄せ付けない。彼の名前は、金融メディアで「予測不能な新星」として称賛され続けている。

 

 一方、響が創業した新興のAI・データソリューション企業「ノア・・システムズ」も、依然として上り調子だった。旧華族の血筋という背景と、響自身の類まれな統率力と冷徹な美貌が相まって、企業イメージは「孤高の王」として確立されている。怜との私的な戦争が終結したことは、響のビジネス手腕に何ら影響を与えていないように見えた。

 二人の企業は、依然として協力関係を続け、互いの利益を最大化する冷徹なビジネスパートナーとして、市場を支配していた。

 誰も、この二人の完璧なCEOの間に、一ヶ月前まで、命を賭した愛憎の儀式が存在していたなど想像もしないだろう。


 §

 

 怜は今、都心の高級ホテルの高層階の一室を借りて暮らしていた。

 家具付きの無機質な空間は、私的な感情を一切受け付けない。この場所は、響と共有した洋館の()()()()()とは正反対の、()()()()()()()だった。

  窓の外には、一ヶ月前と変わらない東京の夜景が広がっている。怜は、夜景を見つめながら、氷の入ったグラスを傾けた。

 首筋に残っていた響に絞められた痕――あの痕は、すでに消えつつある。皮膚に残された唯一の違和感は、タートルネックの襟と肌との、乾いた摩擦だけだ。

 響との関係が断たれて以来、怜の日常は、外から見ればいつもと変わらない、完璧なルーティンで構成されていた。朝は五時に起床し、昼は会議、夜は社交と仕事。内面の飢餓感を、彼は完璧に機能するCEOという役割で覆い隠していた。

 むしろ、怜の行動は、以前よりも自由で、開放的になっているように見えた。響という「監視者」が消えたことで、彼は自分の「存在証明」のための次の手段を、何の遠慮もなく探すことができるようになったのだ。



 怜は、手に持ったタブレットの画面をスライドさせた。表示されているのは、様々な業界の人間関係のデータを分析した独自のリストだ。


 ――響は、俺の要求に応えられなかった。愛という、生ぬるい感情に屈した。


 怜は、タブレットに映る一人の男性のプロフィールを拡大した。彼は、若くして成功したIT企業の創業者だが、裏では激しい支配欲と破壊衝動を抱えているという噂があった。

 怜の目的は、明確だった。響の後釜となる、新たな()()()つまり()()()を見つけることだ。彼が求めるのは、怜の嘘を暴き、その存在を痛みによって証明してくれる、純粋で冷酷な支配者である。


 「愛」など、邪魔な感情は不要だ。


 怜は、そのIT企業の創業者にコンタクトを取るためのメッセージを作成し始めた。その文面は、あくまでビジネス上の協力を装いつつ、相手の「負の衝動」を的確に煽る、毒の含んだ誘い水となっていた。


 ――響。お前が俺から真実を奪ったのなら、俺は、お前の独占欲が最も恐れる方法で、新しい真実を見つけ出す。


 怜の口元に、冷たい微笑が浮かんだ。それは、夜の闇の中で、獲物を捕らえようとする捕食者の笑みだった。彼の孤独な「存在証明」の探索は、今、新たな局面に入ったのだ。


 

 ~

 

 

 怜が出ていった洋館は、一ヶ月経っても静寂のまま、重い棺のようだった。響は、この空間でただ一人、孤独に耐え続けていた。

 怜の言葉が、彼の耳から離れない。

 「お前は、お前自身の弱さに屈した。俺は、お前のぬるい愛を必要としない」

 響は、怜が自分を離れた理由が、自身の「愛」という名の躊躇にあったことを知っている。

 彼は怜を救おうとした。

 だが、怜にとっての救済とは、響の絶対的な支配でなければならなかった。その真実を突きつけられた響の内面は、怜以上に深く落ち込んでいた。

 怜は、痛みで存在を証明できた。響は、怜を支配することで、「自分が必要とされている」という唯一の救いを手に入れていた。

 それが断たれた今、響の心は空洞になり、その空虚さは、凄まじい勢いで彼の存在を蝕み始めていた。

 響は、その心の穴を埋めるため、仕事へと逃げ込んだ。

 「ノア・システムズ」の創業者として、彼は寝る間を惜しんで働き、メディアへの露出も以前にも増して激しくなった。彼の冷徹な美貌と、市場を支配する手腕は、ニュースやワイドショーで連日取り上げられたが、その裏で、響の疲労は日を追うごとに蓄積していた。


 

 

 その日、響は新製品の発表を兼ねた生放送の経済討論番組に出演していた。

 スタジオの照明は強烈で、響の完璧なスーツ姿を照らし出しているが、響の身体はまるで重りをぶら下げられているかのように、異常な倦怠感に襲われていた。

 隣で経済評論家が、AIがもたらす未来について熱弁を振るっている。その声は、遠く、水の中にいるかのようにくぐもって聞こえた。


 ――おかしい。昨夜は一応、四時間は寝たはずだ。なのに、こんなに……。


 司会者が、笑顔で響にマイクを向けた。


「さあ、一ノ瀬CEO。御社が提案する次世代のデータソリューションについて、視聴者の方に最も伝えたい核となるメッセージをお願いします」


 響は、プロとして完璧な笑顔を浮かべ、口を開こうとした。しかし、口を開いた瞬間、視界が激しく揺れ始めた。


 ――あれ、視界はこんなにぼやけていたか?


 スタジオの照明が、滲んだ水彩画のように広がる。司会者の顔の輪郭が曖昧になり、スタジオのカメラの赤いランプが、不気味な血の色に変わっていく。

 響は、発言しようとした言葉を、喉の奥で見失った。


「――っ、CEO?  一ノ瀬CEO?」


 司会者が、怪訝そうな、しかしプロらしい落ち着きを保った声で、繰り返し話しかけてくる。だが、その声は響の耳には届かない。


 ――ああ、耳が遠くなっていく……。遠い。遠い。


 思考が、白い霧に包まれたかのように急速に鈍化していく。全身から力が抜け、座っている椅子から身体が滑り落ちていく感覚がした。彼は、何かに縋ろうと手を伸ばしたが、目の前にあるのは、何も捉えられない、虚ろな空気だけだった。


「一ノ瀬CEO、少し、ご体調が……?」


 司会者の声が、最後にピーという耳鳴りの中に消えたのを最後に、響の意識は、底のない暗闇へと沈み込んでいった。

 スタジオが騒然となる、激しいざわめきが響いていたが、その音は、響の意識が離脱した世界には、もはや届かなかった。



 ~

 

 

 響が目を覚ました時、彼はスタジオの隣の、静かな来賓用楽屋のソファに横たわっていた。頭上には、見慣れた顔が心配そうに覗き込んでいる。秘書の斎藤だった。


「一ノ瀬さん! お気づきになりましたか? よかった……」

「……ここは」


 響の声は、砂を噛んだように掠れていた。


「楽屋です。幸い、生放送はすぐにCMに切り替わり、大事には至りませんでしたが……倒れられたんですよ。今すぐ病院へ」

「いや、大丈夫だ」


 響は、身体を起こそうとしたが、全身の倦怠感で力が湧かない。斎藤は、強い口調で響を制した。


「大丈夫ではありません! この一ヶ月、あなたは一日分も眠っていません。先方には、私が代わって謝罪し、対応しました。明日のスケジュールは、すべてキャンセルいたしました」


 斎藤は、響の顔色を見て、その疲労が単なる過労ではないことを悟っているようだった。彼は、倒れた瞬間、響の顔がまるで何かに憑かれたように虚ろだったことを知っている。

 秘書が飲み物を取りに楽屋を出て行き、響は一人になった。静寂が戻った楽屋で、響はポケットから携帯を取り出した。画面を点灯させると、ビジネス関係の通知の中に、一件だけ、パーソナルなメッセージが埋もれていた。


 ――差出人は、怜。


 響は、手が震えるのを感じながら、そのメッセージを開いた。怜からの連絡は、洋館を出て以来、すべて仕事の連絡事項だけだった。

 

 差出人: 神代 怜

 倒れたんだってな。気をつけろよ、特に年末にかけて忙しくなるんだからなこの業界は。

 あ、これ俺の行きつけの喫茶店のクーポン。これでも使って安め。

 

 メッセージには、怜が時折利用していた、近所のレトロな喫茶店のクーポン画像が添付されていた。

 そのメッセージは、怜の感情が完全に削ぎ落とされた、冷たい事務的な気遣いのようにも読めた。

 しかし、同時に、あの怜が、自分のためにわざわざ「安め」という言葉と、「行きつけの店」という私的な情報を送ってきたという事実に、響の胸は、激しい痛みに苛まれた。


 ――怜……お前は、まだ私をビジネスパートナーとして見ているのか。それとも……。


 響は、ソファに沈み込みながら、携帯を握りしめた。怜は、自分に「ぬるい愛」を捨てさせた。そして今、怜は、その「空虚な愛」で満たされようとしている響の心を、たった一枚のクーポンで、再び揺さぶり始めたのだった。

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