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Episode11【決別】

 Episode11【決別】


 §



 翌朝、洋館の寝室に差し込む柔らかい朝日の光の中、神代怜は深い倦怠感と共に目を覚ました。

 全身が鉛のように重い。それは、昨夜の嵐のような儀式の明確な証拠であり、怜にとっては最高の達成感だった。

 目覚めてすぐ、昨夜の「たすけて」という言葉が、一瞬、怜の脳裏を過った。

 しかし、それは、極限の快感と恐怖が混ざり合った際に生じた、意味のない生理現象として、すぐに彼の意識から払拭された。彼に残されたのは、響の独占欲という名の、絶対的な欲望を浴びたという、倒錯的な幸福感だけだった。

 怜は、寝ぼけたままベッドから這い出し、洗面台へと向かった。顔を上げ、鏡に映る自分を見た瞬間、彼の目は見開かれた。


 首筋には、昨夜響に喉を絞められた痕が、青紫色の濃い帯となってくっきりと残されていた。


 怜の皮膚に、鳥肌が立った。ゾクゾクとした、甘美な戦慄が背筋を駆け上がる。


 ――ああ、響。お前は、本当に俺を壊そうとしてくれたんだな


 昨夜の響の支配は、彼の「愛」という名のぬるさを完全に脱ぎ捨て、怜が求めていた純粋な破壊者として君臨した。その圧倒的な力と、彼の命を奪いかねないほどの激しい独占欲に触れたこと。その事実こそが、怜にとっての究極の快感であり、存在証明だった。


 鏡に映る自分の傷跡を、怜は恍惚とした表情で指先でなぞった。

 この感動を、響に伝えなければ。


 怜は、全身の激しい倦怠感を無視し、早足で身支度を始めた。昨夜の残骸が散乱する部屋を顧みず、怜は昼間の完璧な「神代怜」の仮面を急いで装着した。傷はハイネックのタートルネックで隠し、完璧なスーツに袖を通す。


 

 ~

 

 怜がダイニングルームに足を踏み入れると、響はすでに席に着き、コーヒーを飲んでいた。

 しかし、響の雰囲気は、いつもの朝とは決定的に異なっていた。いつもの朝の響は、夜の激しい行為の後でも、怜の傷を冷たく確認し、再び昼間の完璧な「実業家」としての仮面を装着していた。そこには、わずかな高揚感と、怜への支配を再確認する冷徹な静けさがあった。

 今日の響の表情は、どこか浮かない顔だった。

 黒い瞳は、コーヒーカップを見つめながら、深い苦悩と、何か重大な覚悟を決めたかのような、重い影を宿している。

 怜は、その重い空気に気づくことなく、いつものように響の向かいに座り、身を乗り出した。


「響。昨夜は最高だった」


 怜の声は、高揚と、満たされた喜びに震えていた。


「お前は、やはり俺の最高の加害者だ。他の誰にも、お前の代わりなど務まらない。あの恐怖と、絶頂の狭間……あの破壊こそ、俺が生きる唯一の真実だ」


 怜は、興奮を抑えきれず、昨夜の鬼ごっこと、喉元の絞め跡がどれほど彼を歓喜させたかを、熱心に伝えようとした。


「あの独占的な力、あの暴力……もう一度、今夜も頼むよ。今夜は、昼間の会議で、より完璧な嘘を演じきってみせる。だから、今夜はもっと強く、俺を壊してくれ」


 怜の目には、響への絶対的な信頼と、途方もない渇望が溢れていた。彼は、響がこの歓喜を共有し、すぐにでも昨夜の続きの「契約」を結んでくれると信じていた。

 響は、怜の熱狂的な言葉に、一度も目を合わせなかった。

 彼はゆっくりとコーヒーカップをソーサーに戻すと、深く息を吐いた。その仕草は、まるで重い鎖を断ち切るかのように、覚悟に満ちていた。

 そして、響は初めて怜と目を合わせた。その瞳は、冷酷さではなく、怜が最も恐れる深い悲しみを湛えていた。


「怜」


 響の声は、冷たかったが、その冷たさには、激情の後の疲れ果てた優しさが混じっていた。



「もう、できない」



 その言葉は、まるで洋館の重厚な壁を揺るがす静かな爆弾のように、ダイニングルームの空気を粉々に砕いた。


 

 §

 

 

 響の「もう、できない」という言葉は、怜の全身の血を凍らせるには十分だった。彼の顔から、高揚に満ちた熱は一瞬で引いていった。


「できないって、どういうことだよ。何言ってんだよ、お前」


 怜は、絞り出すような声で問い返した。その声は、完璧な仮面の下に隠された、幼子のような混乱を含んでいた。 響の決意が、彼にとって唯一の真実の証明の土台を、根元から揺さぶっている。

 響はコーヒーカップを両手で包み込み、その熱で自身の震えを抑え込もうとしているようだった。


「そのままの意味だ。できないものは、もうできないんだ。私は……もう御前の苦しむところは見たくない」

「は?」


 怜は呆然と響を見つめた。


「何を今さら。それが、俺たちの契約だろう! お前は俺の加害者で、俺はお前の被害者。それが俺たちの真実だ!」

「真実だと?」


 響は顔を上げ、その瞳は夜明け前の空のように、濁った色をしていた。


「御前だって、昨日気がついただろう? 言っただろう? 助けてって」


 ダイニングルームの空気は、急速に冷え込んでいく。

 怜は、昨夜の極限状態での微かな叫びを、意味のない生理現象として処理したはずだった。それを響に突きつけられ、身体の奥底が軋むのを感じた。


「いや、それは……あれは、痛みの快感が高まりすぎた、ただの乱れだ。俺が望んだことだ!」

「違う!」


 響は、テーブルを叩いて立ち上がった。

 バァンという激しい音が、洋館の静寂を破る。


「お前のあの時の目は、快感に溺れた目なんかじゃなかった! 私は見たんだ、怜。お前が生きたいと、恐怖に怯えているのを!」


 響は、苛立ちと苦悩が混ざった手で髪を掻き乱す。


「いい加減、気がつけよ。おれたちはおかしいんだって。お前は痛みでしか生きていけないと思い込み、私はそのお前を傷つけることでしか、愛を証明できない。これは、愛憎なんかじゃない。地獄の共依存だ!」


 怜は、響の真摯な言葉に、胸の奥深くに刺さるような痛みを覚えた。

 だが、それは、響が愛を口にした時の「ぬるい痛み」ではない。

 それは、自分の存在の核が否定されようとする、本質的な危機だった。


「……勝手なことを言うな!」


 怜は必死に声を張り上げた。彼の完璧なスーツは、今の感情の激しさとは裏腹に、不自然なほどに整っている。

「愛だの地獄だの、そんなことはどうでもいい! 響、お前だけが、俺の空っぽの器を満たせる唯一の人間だった! お前の暴力だけが、俺の嘘を暴き、真実を与えてくれたんだ!」


 怜は、ソファから立ち上がり、響の腕を強く掴んだ。彼の指先は、絶望的なほどに震えていた。


「お願いだ、響。この関係を、この儀式を続けよう。俺は、お前を裏切らない。お前の独占欲を満たしてやる。だから……俺から、お前の支配を奪わないでくれ!」


 響は、怜の懇願に、目を閉じた。怜の身体は熱く、その訴えは切実だ。

 だが、昨夜、彼が目撃した怜の()()()()が、響の決意を揺るがすことはなかった。


「もう遅い、怜。私には、御前を愛しながら、御前を破壊し続けることはできない」

 


「じゃあ俺は! 俺はどうやって自分の存在を証明したらいいんだよ!」

 


 怜の叫びは、洋館の重厚な天井を突き破り、魂の慟哭となって響いた。

 一瞬、ダイニングルームの空気は、その激しい感情の爆発によって、真空状態になったかのように静まり返った。響は返す言葉がなく、ただ力なく首を垂れた。

 窓の外では、朝の光が強まり、洋館の庭の木々を鈍い緑色に染め上げていた。しかし、この部屋の中だけに、夜の闇がまだ残っている。

 コーヒーの冷めた香りが、二人の間に流れる重く、救いのない沈黙を強調していた。その空気は、まるで、永遠に埋まらない断崖絶壁のように、二人の間に横たわっていた。




 暫くの沈黙の後、怜は諦めたように、響の腕から離れた。その仕草には、昨夜の狂気も、今朝の激情も、すべてが消耗し尽くされたかのような虚無が漂っていた。


「……そうか」


 怜の声は、乾いていた。まるで、感情のすべてを失ってしまったかのように、平坦だった。


「お前が、もう俺の加害者でいられないというのなら……もう、この関係は必要ない」


 怜は、乱れたスーツを整えることもなく、冷たい瞳で響を見据えた。彼の顔は、完璧な仮面を装着しているにもかかわらず、その奥にある絶望が透けて見えた。


「俺は、お前との関係を断つ」


 その言葉に、響は初めて激しく動揺し、顔を上げた。


「怜、待て。私は……」

「そして、この洋館を出ていく」


 怜は、響の言葉を遮った。彼の視線は、もはや響を見ていない。彼が見ているのは、響の支配から離れ、「痛み」による新たな存在証明を探さなければならない、孤独な未来だった。


「お前は、お前自身の弱さに屈した。俺は、お前のぬるい愛を必要としない」


 怜は、ダイニングルームの出口へと、何の未練もないかのように背を向けた。その足取りは、全身の倦怠感があるにもかかわらず、冷酷な決意に満ちていた。

 怜は、響の言葉を背にダイニングルームを出ると、二人の寝室へと向かった。その足取りは、ひどい倦怠感にもかかわらず、どこか現実離れした冷たさを帯びていた。


 彼は、スーツケースを取り出すと、迷いなく、そして驚くほど速やかに荷物を詰め始めた。洋館に持ち込んだ私物は元々少ない。ここは元々響の別荘である。

 昼間の世界で必要な完璧なスーツ、高価な資料、そして、響の暴力に耐えるための肉体を維持するサプリメント。それだけだ。響と共有した私的な時間は、物として残せるものではなかった。

 着替え終わったばかりのハイネックの首元から、昨夜の青紫色の痕が覗く。

 しかし、怜は鏡を見ても、その「歓喜の傷跡」に、もう心を動かされることはなかった。あれは、もう無効な証明なのだ。


 一方、響は、ダイニングルームの中央で、まるで時間が停止したかのように立ち尽くしていた。彼の視線は、怜が去ったドアを釘付けにしている。


 ――どうすればいい? 私は、どうすればよかった?


 彼の頭の中は、激しい音を立てて崩壊していた。怜を愛するが故に暴力をやめようとしたのに、その愛が怜の求める真実を奪い、最終的に怜を失う結果を招いた。愛憎を一つにすることは、響にとっては不可能だった。


 ――引き止めるべきか? 引き止めれば、彼は再び怜の望む「加害者」に戻らなければならない。それは、昨夜怜が漏らした「たすけて」という声と、彼の中の良心を、永遠に殺すことになる。


 ――諦めるべきか? 諦めれば、怜は別の「破壊者」を探し、彼が唯一独占できたはずの壊れた魂を、永遠に手放すことになる。


 響は、選択肢のどこにも救いがないことを悟った。

 彼は、怜の()()()()を奪うという、最も残酷な行為をしてしまったのだ。


「私は……お前を、地獄から救おうとして、地獄へ突き落としたのか」


 響が、自嘲的な呟きを漏らしたその時、洋館の玄関で、重い鉄扉が閉まる鈍い音が響いた。

 ガタン。

 その音は、響の思考を打ち破り、彼を現実に引き戻した。


「怜!」


 響は、凍り付いたように立ち尽くしていた場所から、弾かれたように玄関へと駆けた。



 響が玄関ホールへ飛び出した時、怜はすでに、簡素なスーツケースを引いて、重厚な扉の前に立っていた。早朝の光が、扉の隙間から差し込み、怜の背中に別離の輪郭を作っている。

 響は、その背中に追いすがった。


「待ってくれ、怜! まだ話を……」


 響の指が、怜の腕を掴んだ。その瞬間、怜は躊躇なく振り返った。

 怜の顔には、もう昨夜の狂気も、今朝の絶望もなかった。そこにあったのは、昼間の世界で彼が演じる、完璧で、感情の読めない「神代怜」の仮面だった。


「必要ない」


 怜の声は、冷たく、感情が一切含まれていなかった。それは、商談の際に、無用な雑音を一蹴する時の、プロフェッショナルな声だった。

 響の掴んだ腕に力がこもる。


「私には、御前と話すことが……」

「それは、お前の問題だろう、響」


 怜は、自らの腕を振り払うことはせず、ただ冷たく見つめ返した。そして、静かに口元に、人工的で、完璧に作られた笑顔を浮かべた。その笑顔は、響にとって、これまでのすべての真実を否定する、最も恐ろしい表情だった。

 

「ああ、ご心配なく」

 

 怜は、秘書に語りかけるような、事務的な口調で言った。


「ビジネス関係は相変わらず続けさせてもらうので。むしろ、私が出ていくことで、お互いのプライベートと仕事の境界線が、より明確になる。私たちの関係は今日を境に、ただの取引に戻るだけだ」

「取引……」

 

 響は、言葉を失った。

 彼の腕を掴んでいた響の指の力が、ゆっくりと、しかし確実に緩んでいく。

 その瞬間、二人は、愛憎の共依存という名の鎖を断ち切った。

 神代怜と一ノ瀬響は、もう、命を賭して求め合う友人でもなければ、加害者と被害者でもない。


 ただ、冷酷で、感情のない、ビジネスパートナーになったのだ。


 怜は、スーツケースを引き、洋館の重い扉を開けた。外には、冷たい秋の朝の空気が広がっている。

 彼は二度と振り返ることなく、光の中へと消えていった。

 響は、開け放たれた扉の前で、砕けた心を抱えたまま、茫然と立ち尽くしていた。

 彼の独占欲は、最も大切にすべきものを自らの手で破壊したという、空虚な事実だけを残して、消え失せていた。



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