Episode10【タスケテ】※
少し長くなってしまいましたが、大事な展開なので読み飛ばさないでいただけると嬉しいです☺️
※がついています。苦手な方は閉じてください、、、。
Episode10【タスケテ】※
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いつもの静かな午後の時間、喫茶店「カメリア」のドアが軽やかに開いた。
入ってきたのは、派手さはないが、どこか真面目な印象を受ける若い女の子だった。彼女は店内を見回し、客が窓際に一人いるのを確認すると、カウンター席に腰掛けた。
「マスター、アイスカフェラテ、お願いします」
彼女は注文を終えると、すぐに携帯電話を取り出し、ニュースアプリの画面をタップした。
流れるニュースアプリの生放送画面には、完璧なスーツ姿の神代 怜が映し出されていた。
『――数日前、神代社長は生放送番組へのご出演を急遽お休みされました。市場では一時、様々な憶測が飛び交いましたが、これについて……』
アナウンサーの問いかけに対し、怜はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
『ご心配をおかけしました。ちょっと体調を崩してしまって。今はもう万全です。おかげで、じっくり戦略を見直す時間も取れましたよ』
彼の説明は完璧で、一切の動揺を見せていなかった。
女の子は、その怜の完璧な演技を見つめながら、口元にニタッとした、邪悪にも見える笑みを浮かべた。
その笑みは、怜の言葉の裏にある真実、つまり「体調不良」が嘘であることを知っている、賢い人間のそれだった。
「ふーん。『体調を崩した』、ね」
彼女は誰に聞かせるわけでもなく呟くと、携帯をカウンターに置いた。
マスターは、いつものように黙々とコーヒー豆を挽き、サイフォンに水をセットしている。店内には、豆を挽く音と、クラシックの穏やかなメロディだけが響いていた。
女の子は、マスターの静かな背中に向かって、突然、核心を突くような言葉を投げかけた。
「ねえ、マスター」
「……」
「これ、ほぼ確だよね。あの氷の神童。あいつ、間違いなくこっち側の人間じゃない?」
マスターは手を止めず、カップに抽出された濃いコーヒーを注ぎながら、黙っていた。女の子は、マスターの態度を意に介さず、嬉しそうに続ける。
「私たちと同じ、嘘を纏う者の匂いがする」
彼女は顔を上げ、天井を見つめた。
「さてさて、どうしよっかなぁ。あんな完璧な研究対象、手に入れたら最高じゃない?」
そして、さらに不穏な言葉を付け加えた。
「もしかしてもしかして、2体、手に入っちゃったりして。神代と、一ノ瀬。フフフ……」
彼女は楽しげに笑い、マスターが差し出したカフェラテを一口飲んだ。彼女の口調は、まるで、以前この場所で正直な感情を吐露していた別の誰かとは、全くの別人であるかのようだった。
「まあ、急ぐ必要はないか。獲物は逃げないし。この優雅な休憩の後で、じっくり見物しよう」
こうして、新たな介入者の計画と共に、一日の幕が上がった。
§
オリジングループとの契約がうまくいき、日時が経っていく。怜の会社は着々と実績をあげ、確実に時間の経過と共に成果を上げていた。
そんなとある日の午前十時。
神代怜は、オリジングループの重役会議室で、資料に完璧な集中力を注いでいた。完璧なメイクと衣装で武装した彼は、昼間の世界で必要な神代怜という仮面を、一分の隙もなく着用している。
しかし、彼の内側は激しく波打っていた。
それには昨夜の儀式で響が示した愛という名のぬるさが、彼の渇望を満たせずに残っていたからだ。響は今まで一度も口にしたことがない『愛』と言う言葉を使い、儀式を行った。怜を痛めつけ、抱いた。しかしそこには『愛』という優しさが潜んでいたのだ。
――響の愛など、俺にとっては毒だ
怜にとって、響が痛みではなく慈愛を交ぜてきたという事実は、自身が求める破壊が遠のいたことを意味した。
彼が欲しいのは、昼間の世界の嘘を粉砕する絶対的な真実、すなわち純粋な痛みだけだった。
響の感情は、その真実を覆い隠す、甘い靄のように感じられた。
会議は滞りなく終わった。幹部たちの社交的な挨拶と、彼の能力を賞賛する言葉は、すべて怜の耳には入らない。
彼の心は、昨夜の満たされなかった渇望と、それに応えなかった響への苛立ちで占められていた。
怜は、無機質なオフィスビルを出て、響と共に暮らす郊外の洋館へと車を走らせた。夕暮れ時、洋館の重厚な鉄扉をくぐり、足を踏み入れる。
洋館の静寂は、昼間の喧騒とは異なり、怜の神経を研ぎ澄ます。完璧な仮面を脱ぎ、タートルネックに着替えた彼は、革張りのソファに深く沈み込んだ。
セットされた髪を乱雑に触り、舌打ちをする。
「……どうすれば、あの男は、私の望み通りの加害者に戻る?」
怜は、テーブルの上に置かれた使い慣れた黒い鞭に手を伸ばし、そのしなやかな感触を確かめた。響は、彼が痛みを渇望している限り、自分を支配し続ける。それは、怜が響に課した絶対的な契約だ。
しかし、響が「愛」という感情を混ぜ込み始めたことで、その契約は揺らいでいる。怜が求めているのは、響の理性を破壊し、内に秘めた獣を、遠慮なく自分に向けて放つことだ。
怜は、響の弱点を正確に把握していた。それは、「神代怜」の偽りの完成度に対する、響の支配欲と嫉妬だ。
怜は立ち上がり、洋館の暗い廊下を歩き始めた。響に対する最も効果的な手段は、響以外の誰かが、自分に触れる可能性を匂わせること。
響にとって、怜が他の「破壊者」を探すという事実以上に、彼の支配欲を狂わせるものはない。
怜は、自らの携帯を取り出した。画面に表示されているのは、昼間の会議で知り合った、ある会社の若手役員の連絡先。彼は怜に対して、露骨な好意と関心を示していた。
――響。お前が私への愛を優先し、罰を緩めるのなら……私は、お前の支配の外へと踏み出さなければならない
怜は、その連絡先にメッセージを作成し始めた。
『もしよろしければ、近日中に改めて二人でお話しする時間をいただけませんか。個人的な相談がありまして』
それは、響を裏切るメッセージではない。
しかし、響がこれを見れば、その独占欲は燎原の火のように燃え上がり、彼の理性は吹き飛ぶだろう。
怜は、メッセージを送信する寸前、一瞬だけ指を止めた。
――この行為は、俺を完全に壊すか、それとも、響との関係を永遠に壊すかだ。
しかし、響のぬるい愛に屈し、中途半端な存在として生き続けることこそが、怜にとっての最大の破滅だった。
彼は躊躇を振り払い、送信ボタンを押した。
響がこのメッセージを知る夜、彼らが交わすのは、もはや儀式ではない。それは、愛憎が混じり合った、命がけの戦争となるだろう。怜は、その痛みを渇望しながら、響の帰りを待った。
~
夕闇が完全に洋館を飲み込み、彼の真実の舞台は、夜の帳の底に沈んでいた。
怜はソファに深く身を沈めたまま、黒い鞭を握りしめ、時折、そのしなやかで冷たい革の感触を指先で楽しんでいた。メッセージを送信した後の、張り詰めた静寂が、彼の内側の渇望をさらに研ぎ澄ませていく。
この静寂は、嵐の前の、あまりにも完璧な静けさだ。彼は知っている。
響は、彼らが交わす契約を何よりも絶対視する。その契約――お前の歪んだ存在価値は、私に支配され、罰を与えられることでしか証明できないという独占的な真実――を、怜が第三者の影で揺さぶったのだ。
その時、重厚な鉄扉が、激しい音を立てて開いた。
響の帰宅だ。
そしてその姿がリビングの入り口に現れた。彼のスーツは着崩れ、ネクタイは緩み、乱れた髪の下の瞳は、まるで火を噴く獣のように爛々と輝いていた。いつもの抑制された「支配者」の仮面は、すでに剥がれ落ちている。
響は、ソファに腰掛ける怜を一瞥すると、その視線をローテーブルの上――怜が置いたままにしていた携帯電話へと向けた。
怜は微動だにせず、響の怒りが頂点に達するのを、飢えた目で待っていた。
響は無言でテーブルに近づくと、怜の携帯を乱暴に手に取った。画面は、怜が送信したメッセージの「送信済み」フォルダを開いたままになっていた。
『もしよろしければ、近日中に改めて二人でお話しする時間をいただけませんか。個人的な相談がありまして』
メッセージを読み終えた瞬間、響の顔から、すべての理性と抑制が消え去った。
「これは……どういう意味だ、怜」
響の声は、怒りというよりも、裏切りへの絶望と、根源的な独占欲によって、低く、喉を絞り出すように発せられた。彼の指が、携帯電話のガラスを砕きかねないほど強く握りしめられる。
「そのままの意味だよ、響」
怜は立ち上がり、響と正面から向き合った。彼の表情は、一瞬の怯えもなく、むしろ満足した獲物のように、挑発的な輝きを帯びていた。
「お前の罰は、ぬるくなった。お前が『愛』などという生ぬるい感情を混ぜてきたせいで、俺の渇望は満たされなかった。この世界には、俺の嘘を、愛情で汚さず、純粋な暴力で壊してくれる人間が、まだいるかもしれない」
「聞いて、いたのか……」
響の顔には、焦りが浮かぶ。
まるで聞かれていたのがいけなかったことのように。怜はそんな響を冷ややかな目線で見ると、耳元に小さく囁いた。
「ぬるいんだよ」
刹那、響の瞳に、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。
怜が他の誰かを求めているのではない。
怜が、自分以外の誰かに「真実の破壊者」の役割を与える可能性が、響の支配欲を根底から揺るがしたのだ。
「ふざけるな……っ!」
響は携帯を床に叩きつけ、ガラスが甲高く砕け散る音は、二人の間で始まった戦争の最初の銃声となった。
響は獣のように怜にその顎を掴むと、問答無用で革張りのソファに押し倒した。鈍く重い衝撃が怜の背中を襲う。
「お前が望んだのは、この支配の真実だろう! ならば、最後まで受け止めろ!」
響の声は、怒りというよりも、抑圧されていた熱狂に満ちていた。彼は怜のタートルネックを強引に引き伸ばし、愛撫の記憶をすべて否定するかのように、その身体を力で捩じ伏せる。
怜は、響の暴力から逃れられない状況に、戦慄と同時に、極度の快感を覚えていた。響の衝動的な支配は、彼が求める純粋な「真実」であり、昼間の世界で失っていた「生命の熱」そのものだった。
響の指が、怜の脇腹の皮膚に容赦なく食い込む。痛みが走るたび、怜の脳内には生きているという確かな証明が焼き付けられた。
しかし、響が怜の首筋に鋭い歯を立て、その独占的な痛みを刻み込もうとした瞬間、怜の瞳に邪悪な遊び心が宿った。
――これでは、まだ響の支配下にいるだけだ。もっと、響の獣を引きずり出すには――
怜は、全身を支配する快感の渦の中で、一瞬の隙を突いた。響が次の攻撃に移ろうと体勢を崩した、ごくわずかな間だ。
怜は、まるで手から滑り落ちた水のように、するりとソファから転がり落ちた。
「逃げるな、怜!」
響の怒声が部屋に響く。
「逃げる? いいや、響。これは鬼ごっこだよ」
怜は顔を上げ、汗で濡れた顔に、狂気的な笑みを浮かべた。
その表情は、今にも壊れそうな脆弱な美しさと、純粋な恐怖を餌にする獣の二面性を併せ持っていた。
怜は素早くテーブルの上に置いてあった灰皿を掴むと、躊躇なく、響に向かって投げつけた。陶器が壁にぶつかり、砕け散る音が鳴り響く。
響は、その挑発にさらに支配欲を燃やし、怜を部屋の隅に追い詰める。家具を蹴散らす轟音と共に、二人の間の距離が急速に縮まった。
追い詰められた怜は、壁際に身体を打ち付けられた。響の荒々しい腕が、怜の頭上を固く拘束する。その瞬間の衝撃と痛みは、怜が求めていた最高の報酬だった。
「その狂った目だ、怜。その恐怖と歓喜の混ざった瞳こそ、お前が嘘のない姿だ」
響は、怜の恐怖を楽しむかのように、その拘束を緩めることなく、暴力的な抱擁へと移行した。彼の唇は、怜の首筋を貪り、愛撫と痛みがない交ぜになった激しい官能を押し付けた。
怜の身体は、痛みと官能の狭間で激しく乱れた。理性が完全に溶け落ち、彼の頭の中には、響の支配と命の熱しか残らない。
深夜3時を回った。
古めかしい洋館の一室では、響と怜が互いに狂ったように遊んでいた。
それは彼らにとって、支配と屈服、痛みと快感が絡み合う、命懸けの儀式だった。
ソファや絨毯の上には、引き裂かれた布地や、砕けたガラス片が散乱している。それは、怜が仕掛けた「鬼ごっこ」の激しさと、響がそれにどれだけ独占的な怒りを燃やしたかを物語っていた。
怜の身体には、激しい暴力と官能の痕跡が、生々しく残されていた。
呼吸は乱れ、喉からは乾いた喘ぎが漏れる。彼は今、響の身体の上に乗り上げ、その強烈な衝動を受け止めながら、快楽と恐怖の狭間で激しく腰を振って乱れていた。
――もっと深く……響! お前の偽りない衝動で、俺を壊せ!
怜の瞳は、快感によって焦点が定まらないながらも、響の瞳に映る狂気的な熱を貪欲に求めている。
彼の頬は涙と汗、そして乱れた息によって上気し、それはまるで破壊の極致で咲き乱れる毒の花のようだった。
響の支配は、もはや「愛」の介入を許さない、純粋な衝動と独占へと昇華していた。彼は、怜の身体を何度も強く、荒々しく打ちつけ、その度に怜の喉から甘い悲鳴が漏れた。
しかし、響の力は、怜がこれ以上の快感は耐えられないと感じる、臨界点を超え始めた。
響は、怜の身体を乱暴に引き寄せると、その喉元に、命を脅かすほどの力で手をかけた。
ゴッ、と喉が詰まる鈍い音が室内に響き渡り、怜の視界は一気に暗転した。
――違う……違うッ!
痛みと快楽の境界が、轟音を立てて崩壊した。
怜の脳を支配したのは、もはや快感ではない。生命の危機という、根源的な恐怖だけだった。
その恐怖は、怜が長年「優等生」の仮面の下に蓋をしてきた、「生きたい」という人間の本能を、一気に噴出させた。
涙と涎、汗が混ざり合い、怜の顔はぐちゃぐちゃになっていた。激しく打ち付けられる腰と連動し、響の手の圧力は喉仏を圧迫していく。ガクンガクンと揺れる視界に対し、首元は一向に弛まない。
そして彼の口から、か細く、ほとんど聞き取れない、切実な声が漏れた。
「…………………………たす、けて」
「――ッ!」
その瞬間、響の全身が、電撃に打たれたように硬直した。
響の意識は、怜の身体を支配する熱狂的な衝動の渦から、一瞬で引き戻された。彼の耳に届いたのは、いつも彼の暴力を挑発し、渇望していた怜の傲慢な声ではない。それは、暗闇の底で溺れる、ただの弱い人間の悲鳴だった。
――たすけて……?
その一言が、響の破壊衝動を、根底から凍り付かせた。
響は、自分のした行為の残酷さに、息を呑んだ。彼は、愛を理解しない怜に、暴力でしか届かないと信じ、その暴力で、彼の中の人間的な核までを壊そうとしたのだ。
響がハッと顔を上げ、怜の顔を見た。
そこには、涙と、恐怖と、深い疲弊によって感情が剥き出しになった、崩壊寸前の魂だけがあった。
響の腕の力が、急速に失せていく。
彼は、震える指先で怜の頬に触れた。
その瞬間、怜の瞼は重く閉じられた。全身の緊張が抜け落ちた怜の身体は、微かに痙攣しているものの、その意識は深く、深い闇へと沈んでいた。
響は、床に散乱する家具の残骸、砕け散った携帯のガラス片、そして、涙の跡が残る怜の顔を見つめ、全身から力が抜け落ちるのを感じた。
「俺は……何をしている」
洋館の部屋は、再び静寂を取り戻していた。
しかし、その静寂は、響が初めて目撃した怜の「助けを求める心」と、自身が犯した修復不可能な過ちの重さによって、永遠に満たされることはなかった。




