Episode1【危険な呼水】※
Episode1 【危険な呼水】
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まだ、春先の暖かさが残る初夏。
古めかしい洋館の一室には、月明かりだけが辛うじて部屋を照らしている。
神代怜は、ロープが食い込んだ両手首の痛みを無視し、薄暗闇の中でわずかに口元を吊り上げた。
目の前に立つ一ノ瀬 響を見上げながら、そのグレー瞳に映る自身の姿に、満足げに息をつく。
「……響、まだか?」
怜の声は、状況にそぐわず、どこか甘さを帯びていた。細く白いうなじに滴る汗が、彼の興奮の度合いを物語っている。
響は、その挑発的な態度に眉をひそめた。怜が自分に向けた無言の信号が、響の深層にある苛烈な欲求を掻き立てる。
「ずいぶんと余裕だな、怜。毎度のことながら、御前のその飢えた眼には虫唾が走る」
響の言葉は冷たく、しかし、その奥底には隠しきれない熱が籠もっていた。彼は無造作にベッドの傍らに置いてあった黒い鞭を手に取る。しなやかな革が、照明のない部屋で鈍く光った。
「そう言わず。ほら、俺の期待に応えろよ、響」
怜は、両手を縛られたまま、腰をわずかに前へ突き出し、一瞬だけ目を閉じた。それは、獲物が自ら牙を差し出すような、あまりに傲慢な、そして極度に誘惑的な仕草だった。
響の理性のタガが、音を立てて外れる。
「……ッ、御前は……!」
響は、怜の意図を正確に理解していた。
怜は自分が何をされたいのかを明確に示し、響がその役を果たすことを強要しているのだ。この残酷で倒錯した関係において、主導権を握っているのは、いつだっていじめられる側の怜だった。
響の唇が、苛立ちと歓喜がない交ぜになった、歪んだ笑みを刻む。
彼は力を込め、鞭を振り上げた。ビュンと乾いた音がする。
鞭を握る響の指先に、一瞬、電流のような震えが走った。目の前の怜が纏う、この常軌を逸した「求め」。その源泉を、響は嫌というほど知っている。
鞭が濁りに染まった怜の体に躊躇なく当たった。
――全てが変わり始めたのは、数年前のあの白昼の日だった。
それは、響が通っていた名門校の、校舎裏の雑然とした物置で起こった。
響は当時から近寄りがたい冷徹な美貌で知られていたが、同時に、内に秘めた暴力的な衝動を抑えきれずにいた。己もこの衝動の正体を知らずにいた。知ることが怖かったのかもしれない。
その日も些細なことで苛立ち、誰もいない場所で壁を殴りつけた直後だった。そして、崩れた髪を掻き上げた時、
「へえ。あの一ノ瀬響が、壁なんかにやつ当たりするんだ」
突然、声がした。
見れば、同じ学年の神代怜が、積み上げられた段ボール箱の影から顔を出している。当時の怜は、成績優秀だが、どこか薄ら笑いを浮かべていて、教師からも同級生からも一線を引かれる存在だった。
「見てたのか。趣味が悪いな」響は吐き捨てるように言った。
怜は気にせず、壁に残った拳の痕を眺めながら、近づいてくる。その眼差しは好奇心と、形容しがたい種類の期待に満ちていた。
「別にいいじゃん。壁殴るくらい。――でもさ、もったいなくない?」
「……何がだ」
「その力。壁に使うなんてさ。本当は、もっと生々しい感触が欲しいんだろ?」
響の全身の毛が逆立った。怜は、響が誰にも見せまいと必死に隠してきた、内側の穢れた渇望を、あまりに無邪気に、そして的確に言い当てたのだ。
「御前、何を……」
「わかってんだよ、響。お前、俺がムカついてんだろ?」
怜は、響の瞳をまっすぐ見つめた。その目には、少しの恐怖も、戸惑いもない。あるのは、ただの誘いだった。響もその瞳に吸い込まれるように釘付けになった。
――ガラス玉? いや、もっと奥深い、底なしの黒い瞳……。
「その冷たい顔、嫌いじゃないけどさ、もっと感情剥き出しにしたいって思ってるんじゃないの? 俺がお前のその衝動の出口になってやってもいいんだぜ」
「……黙れ!」
響は怒りに任せ、怜の細い胸倉を掴み、壁に押し付けた。強い衝撃に、怜の背後で段ボール箱が崩れる音が響いた。
「ッ……!」
正直、響は、その行為にゾッとした。
壁を殴った衝動が、初めて生身の人間に向かい、その手に伝わる柔らかな肉体の感触が、脳髄に響く。しかし、もっと恐ろしいのは、怜の反応だった。
首筋に響く荒い呼吸。苦痛に歪むかと思いきや、怜の顔は、恍惚とした、歪んだ笑みに染まっていた。
「……はは、最高じゃん」
掠れた声で、怜は言った。
「その力、誰にも使うなよ。他の奴にそんなことしたら、俺が許さない。今日今この瞬間から、お前のその汚い部分は、俺のもんだ、響。俺が、お前の欲求の奴隷になってやる。だから、その代わり、お前は一生、俺だけの加害者でいろ」
それは、命令だった。
そして、響にとって、逃れようのない、完璧な共犯の契約だった。
この瞬間、響は悟った。自分は怜の奴隷なのではない。この男こそが、自分の深淵にある残虐な衝動を満たすためだけに、存在する特別な獲物なのだと。
誰に対しても向けるはずがなかったこの衝動を、響はこの瞬間に、知らず知らずのうちに書き換えてしまう。
それを知るのは、もう少し先の話――――。
響は、現実に戻った。手元の鞭の重みが、あの日の興奮を再び蘇らせる。
「……生意気な」
響の低い声が、洋館の暗闇に響いた。彼が鞭を振り下ろす瞬間に見せたその表情は、数年前に神代怜という名の毒に魅入られた、あの日の凶暴な獣の顔そのものだった。
響の手の中で、黒い鞭が空気を切り裂く。
「生意気? 褒め言葉じゃん。俺のこの欲しがってる体がさ、お前の本能を刺激してんだろ?」
怜は、両手首の激痛にもかかわらず、挑戦的な視線を響から逸らさない。その眼差しが、響の怒りを、そしてその奥に潜む快感を、さらに増幅させる。
響は、鞭を怜の足元へ投げ捨てた。
「鞭など、御前にはもったいない」
響は一歩踏み出し、怜の体に覆いかぶさるように近づいた。その距離は、お互いの体温と息遣いが混ざり合うほど近い。
「御前はいつも、言葉と視線だけで私を追い詰める。まるで私が御前の用意した舞台で踊るだけの、愚かな道化師だとでも言いたげに」
「図星だろ。お前は俺の快感のためだけに存在する。いじめたいって言うなら、俺の望むように、徹底的にやれよ」
怜は顔を上げ、響の耳元へ囁いた。
「どうした、響。怖いのか? この生意気な口を、別の方法で封じるのが」
この瞬間、響の中で何かが弾けた。怜の言葉は、響の抱えるすべての抑制と、社会性という名の枷を、粉々に砕いた。
「……ッ、いいだろう。その『欲望』、限界まで満たして差し上げるよ」
響は怜の顎を掴み、無理やり上向かせると、そのまま激しく唇を重ねた。それは慈愛とはかけ離れた、むしろ奪い取るような行為だった。
荒々しい舌が怜の口内に侵入し、生意気な言葉を吐き出す口を、内側から支配する。
怜の首筋の汗が、響の指先に濡れた。縛られた手首の痛みと、予想を超えた響の暴力的なキスに、怜の抵抗する意志は麻痺していく。
「ん……っ、は、ぐ……!」
しかし、怜の眼は閉ざされない。その瞳は、涙で潤みながらも、なお響の顔を捉え続け、その支配欲を嘲笑うように輝いている。
これは彼にとって、最高の罰であり、最高の賞賛なのだ。
響は唇を離し、喘ぐ怜の額に自身の額を押し付けた。荒く、熱い吐息が交錯する。響の低い声が、怜の鼓膜を震わせた。
「御前は、私にいじめられることでしか、その歪んだ存在価値を証明できない。そして私は、御前を罰することでしか、この衝動を鎮められない」
響は、怜の体に密着させた自身の熱を感じさせながら、ゆっくりと腰を落とし、怜の拘束された両手首を、強く握りしめた。
そして、響は囁いた。その声には、深い絶望と、歪んだ歓喜が混ざり合っていた。
「さあ、怜。次の罰を、全身で受け、そして、私に感謝しろ」
怜は、激しい息の下で、官能的な笑みを浮かべた。
「……っ、上等。全部受け止めてやるよ、俺の加害者」
そして、暗闇の中で、二人の息遣いだけが、激しく重なり合った。
響は、拘束された怜の手首を解放する代わりに、さらに別のロープを取り出し、怜の首筋にきつく巻き付けた。呼吸を制御される恐怖に、怜の瞳が大きく開く。
「生意気な口を利くには、呼吸が必要だからな。御前のその命綱を、私が握っていることを忘れるな」
「ふ……っ、く……っ、ひび……き……!」
喉を締め付けられ、怜の声は途切れ途切れになる。響は満足げに笑みを深めると、怜の華奢な体を無理やり引き起こし、ベッドの縁に座らせた。冷たい指先が、怜のシャツのボタンを引きちぎるように外し始める。
「肉体的な苦痛だけでは、御前は満たされないのだろう?」
その響の言葉は挑発のようにも聞こえた。裂かれたシャツの隙間から覗く、白い肌。響はそこに、躊躇なく指を滑らせた。それは単なる愛撫ではない。支配者が獲物を品定めする、冷酷な確認行為だった。
怜は首のロープと、響の冷たい指先による快感の板挟みに喘ぐ。
「や、め……ろ、っ、く…る…し、い……」
「苦しい? 何を今更」
響はそう言い放ち、ロープを強く引いた。怜の全身が震え、苦痛で一瞬だけ意識が遠のきかけた。だが、その直後、怜は残されたわずかな酸素を絞り出し、最後の抵抗を示すかのように口を開いた。
「この程度で、俺が屈するとでも……思ってんのかよ、響!」
喉を痛めつけるような低い声。酸素の欠乏で血の気が引いた顔にも関わらず、その表情はなおも傲岸不遜だった。
「ほら、もっとだ! 俺がお前の獣を目覚めさせたんだろ! 中途半端な優しさなんて、俺にはいらない。俺を壊せ。俺の全部を、お前のものにしろよ!」
怜は挑発する。まるで「もっと強く私を罰しろ」と命令するように。
響の瞳は、怜のその無謀な要求に、深い闇を湛えた。
「――ッ、御前は……本当に、許されない人間だ」
響は、もはや躊躇しなかった。怜の身体に残る衣服を乱暴に剥ぎ取り、その白く無防備な肌を、自分の手が届く限りの痕跡で汚し始める。
爪の跡、噛み跡、そして響の荒い吐息。全てが怜の肌に刻まれていく。
肉体的な苦痛と、響の猛烈な支配。二つが重なり、怜はついに堰を切ったように声を上げた。それは、苦痛と快楽が混ざり合った、歪んだ歓喜の叫びだった。
「ひびき……!」怜は涙を流しながら、強く響を求めた。
響は、その歓喜に満ちた叫びを聞き、自らの内に秘めていた暴力性と支配欲が、怜という名の受け皿に完全に注がれていることを実感した。彼は怜の体躯を強く抱きしめ、次の行為へと移行するべく、その体を深く押し倒した。




