裂けゆく時代のうねり
夜、 囲炉裏の火がゆらゆらと揺れていた。
ノアは湯気の立つ茶を前に、 父に問いかけた。
「……父さん、 タカツミさんと一緒に働いてたって、 ほんと?」
イシュマは、 何も言わない。 ただ火を見つめていた。
「グローバル企業を動かして、 何千人も雇ってたって……資本主義の、 ど真ん中で生きてたの?」
沈黙。 火がぱちりと音を立てる。
ノアはさらに問う。
「そのとき、 どんな気持ちだったの? なぜやめたの? タカツミさんはまた戻って欲しいって言ってたよ?」
イシュマは、 茶をすすった。
ノアの声が、 少し強くなる。
「資本主義って、 そんなに悪いの? 外の世界には、 動いてる人がいっぱいいる。
“何もしないこと”が本当に正しいの?」
イシュマは静かに薪をくべ、 そしてなお、 言葉を発さなかった。
ノアの胸に、 焦りが灯った。
「……どうして何も語ってくれないの?」
火がぱちり、 とまたはぜた。
ノアの心に宿った小さな火種は、 確かに強く、 燃えはじめていた。
ノアはその夜、 眠れなかった。
火鉢の余熱に指をかざしながら、 納屋の奥へと歩いていく。
ふと、 古い木箱が目に入った。
中には、 父の過去を物語るいくつかの品が眠っていた。
革の手帳、 外国語で綴られた分厚い帳簿、 どこかの工場の図面──
そして、 一枚の写真。 スーツ姿で微笑む若き日のイシュマと、 その隣に立つタカツミ。
「……やっぱり」
ノアは胸の奥で何かが崩れ落ちるのを感じた。
この谷でただ静かに生きている父にも、 かつては“語るべき物語”があったのだ。
なぜそれを隠すのか──
──
翌朝、 ノアは意を決して父に問い詰めた。
「父さん……過去を見つけたよ。 黙ってる理由、 教えてくれる?」
イシュマは静かに、 庭に落ちた柿の実を拾っていた。
「私は……何かを知りたいだけなの。 何が間違っていて、 何が正しいのか、 自分の目で見たいの」
その言葉に、 イシュマはわずかに目を細めたが、 やはり語らなかった。
ノアは声を震わせながら言った。
「父さんは、 それをもう終わったことだと思ってる。 でも私は、 まだ何も知らない。
知らないまま、 ここに縛られるのは嫌だ」
イシュマは、 ただ一つ、 首を横に振った。
それが「行くな」という意味か、 「まだ早い」という意味か──ノアにはわからなかった。
ノアは叫んだ。
「……私は、 外に行きたい!」
イシュマの背は、 動かなかった。
「私は、 父さんみたいに“在る”ことだけで満足できない。
“やる”ことでしか、 自分の意味を見つけられないの!」
沈黙。 庭に秋風が吹き込んだ。
ノアは、 その場を飛び出した。
納屋の奥から旅支度の袋を引きずり出し、 いくつかの衣と手帳を詰めた。
背中で、 誰かの足音がした。
振り返ると、 そこにはミールが立っていた。
何も言わず、 一冊のノートを差し出してきた。
「これは、 僕がこれまでに書きためたものだよ」
谷の四季、 祖母の言葉、 イシュマの沈黙に込められた哲学──
全てが、 ミールの手によって記されたノートだった。
ノアの目に、 うっすらと涙が浮かぶ。
「姉さんは、 “やる”人だ。 僕は、 “見つめる”人。
でも、 火が水に映るからこそ、 美しいんだと思う」
ノアはノートを受け取り、 深くうなずいた。
「ありがとう、 ミール。 あなたは、 私の鏡だった」
ふたりは再び離れた。
ひとつは世界へ、 ひとつは谷の奥へ──
その日の昼、 ノアは谷を出発した。
タカツミは村の入口で待っていた。
ミールは言った。
「姉さんのような火は、 外でこそ照る」
ノアはうなずいた。
「でも、 燃えすぎないように、 水を心に持っていくよ」
谷の山々が遠ざかる。
霧の向こうに、 これまで知らなかった世界が広がっていた。
その背中を、 ミールとイシュマが静かに見送っていた。
その夜、 谷に静かな雨が降った。
イシュマは囲炉裏のそばで、 火鉢に手をかざしていた。
ミールが傍に座る。
「姉さん、 行っちゃったね」
「……あれでいい」
イシュマはぽつりと呟く。
「火は、 旅をしてこそ、 己の熱を知る。
だが水は、 在ることで地を潤す」
ミールはうなずいた。
彼の心には、 誰よりも深く父の言葉が染み入っていた。
──そして、 物語は続いてゆく。