芽生える決意
イサヤが来て5日が経った。
その晩、 囲炉裏を囲んでイシュマが口を開いた。
「イサヤさん、 この谷に関する契約書だが、 中央の議員に協力を仰いだと聞いている。 だが、 その裏で何があったか──知っているか?」
タカツミが紙片を差し出した。
「これは土地取引の際、 地元の行政が圧力を受けて価格を意図的に引き下げた証拠だ」
イサヤの手が止まる。
「君の意志とは関係ないかもしれない。 しかし、 無知であることは免罪符にならない」
イサヤは震える手で証拠を見つめた。
──自分の背後で、 知らぬうちに何が積み重ねられていたのか。
タカツミが静かに告げた。
「君は今、 選べる。 “すでに得た権利”にしがみつくか、 それとも──正しい道を選ぶか」
イサヤの顔が苦しげに歪んだ。
「君が得ようとしていた“価値”が、 どれだけ空虚だったか。 君自身が最も知っているはずだ」
イサヤはしばらく黙っていた。
火の揺らぎだけが、 囲炉裏を照らしていた。
「……私は、 すべてを知っていたと思っていた。
数値、 契約、 資産価値──全て把握していたと、 驕っていたんだ」
誰も返事をしなかった。
「でも私は……知らなかった。
ここに暮らしている人が大切にしている何かを
水が、 森が、 語りかけていた何かを──言葉にはできない、 何かを」
イサヤはゆっくりと立ち上がった。
「私は、 契約を白紙に戻す。
この谷から手を引く。 難しい仕事だが。
それが、 いま私にできることだ」
その言葉に、 谷の空気が静かに震えた。
夜明け前、 イサヤは谷を離れる支度をしていた。
タカツミが声をかけた。
「イサヤ、 お前は失敗したわけじゃない。 気づいたんだ、 それがすべてだ」
イサヤはかすかに笑った。
「それでも、 この“気づき”には代償が要る。
私が壊したもの、 戻せぬものもある。
だが……これからは、 奪うのでなく“返す”側に回りたい」
イシュマは一言も発しなかった。 ただ、 深く一礼をした。
火は、 まだ燃えていた。 だが、 その色はどこか、 やわらかくなっていた。
谷を見下ろす峠道で、 ノアはイサヤに声をかけた。
「……外の世界って、 本当にそんなに違うの?」
イサヤは驚いたように彼女を見つめた。
「違う。 だが、 “違う”ことは、 時に希望でもある」
ノアはしばらく黙っていた。 そして呟く。
「この谷は穏やか。 でも、 変わらなすぎる。
誰も、 問いを発さない。 父も……いつも黙ったまま」
イサヤは優しく頷いた。
「静けさは美徳だ。 だが、 君のような“火”には窮屈かもしれない。
問い続けることをやめないなら──いずれ、 君は出ることになるだろう」
ノアの胸に、 小さな決意が灯った。
イサヤの背中を見送りながら、 心のどこかで思っていた。
──私は、 父のようにはなれない。
“在る”だけでは、 私の火は消えてしまう。
だから私は、 “動きたい”。