広がる世界
朝、 鳥の声で目を覚まし、
昼、 子どもたちの笑い声とともに飯を食べ、
夜、 囲炉裏の火に照らされた談笑に耳を傾けた。
最初のうちは、 観察者としてそこにいた。
データを取り、 土地の傾斜や水源の深度を測るためだ。
だが、 三日目の朝、
ひとりの老婆に味噌汁を勧められたとき、 何かがわずかに崩れた。
「これ、 うちの畑で採れた大根よ。 地の味がするでしょう」
何気ないその一言が、
「土地の価値」を数値でしか見ていなかった彼の感覚に、
“土の匂い”を差し込んだ。
その晩、 イサヤは焚き火の前でミールに尋ねた。
「なぜ、 君はここを出ていかない? もっと広い世界を見たいとは思わないのか?」
ミールは静かに答えた。
「思わないわけじゃない。 でも、 水は流れ続ける場所が必要なんだ。 僕には、 この谷が“流れる場所”なんです」
イサヤは言葉を失った。
彼の中で、 何かが“問われ”はじめていた。
だが、 それが何かは、 まだ分からなかった。
その夜、 ノアはひとり、 焚き火のそばに座るイサヤに声をかけた。
「……お疲れさま。 村の空気、 慣れました?」
イサヤは驚いたように振り返り、 すぐに微笑んだ。
「想像していたよりずっと、 静かだ。 人も、 空気も。 そして……考えがよく響く場所だ」
ノアは火を見つめながら言った。
「私はね、 父やミールとはちょっと違う。 まだ、 よく分からないんです。 “外”の考え方を、 全部悪いとも思わない。 価値や可能性もあると思ってる」
イサヤは目を細めた。
「それは……意外だな。 君は、 もっと反発するタイプかと」
「正直、 あなた達が言う“未来”って魅力的です。 発展や効率、 何かを変える力。 もしそれが人を幸せにするなら、 学ぶ価値はあると思う。 私はまだ、 知らないことだらけだから」
イサヤの視線が真剣になる。
「……君のような視点は、 こちらの世界にも必要だ。 反発だけでは、 変化は起きない」 ノアは黙ってうなずいた。 火の揺らぎの中、 彼女の中で何かが小さく芽生えていた。 ──この谷で燃える火と、 外の世界で揺れる光。 どちらも、 本物なのだと。
翌朝、 ミールはイサヤを谷の水源へ案内した。
「ここが、 谷の“始まり”なんです。
雪が溶けて、 岩を伝い、 何年もかけてここに集まる。 僕たちの暮らしも、 ここから始まってる」
イサヤは湧き出す水の音に耳を傾けた。
「都市では……水はただの“供給インフラ”だ。 誰がどう守ってるか、 考える人は少ない」
ミールは静かに言った。
「でも、 ここでは水が枯れたら、 全部終わる。
木も、 田んぼも、 命も。
あなたたちが掘ろうとしてる場所の下にも、 水脈がある。 壊れたら、 二度と戻らない」
イサヤは小さく息をのんだ。
「……分かっている。 だが、 それでも“レアアース”は世界に必要なんだ」
「必要なのは、 未来です。
その未来を壊してまで、 今を選ぶのが“合理”ですか?」
ミールの声はやわらかかったが、 揺るぎなかった。
イサヤは、 返す言葉を探せなかった。
彼の胸に、 初めて“疑い”が芽生えた。
囲炉裏の火を囲み、 ノアはタカツミに尋ねた。
「都市では、 木も水も、 すべて“数値”に換算されると聞きました。 本当ですか?」
「本当だよ」
タカツミはためらわずに答えた。
「“資本主義”では、 自然も人も、 “資産”として評価される。 木はCO₂吸収量で、 水は浄化コストで、 命さえも労働価値で換算される」
ノアの目がわずかに揺れた。
「でも、 それじゃあ……この谷の“ぬくもり”や“静けさ”は、 どう扱われるんです?」
タカツミは言葉を選ぶように火を見つめた。
「それは……“非効率”として切り捨てられる。 資本の論理は、 “意味”より“機能”を選ぶからだ。
だが、 それが本当に合理なのか──君の父親はその点を考えるため、 資本主義から距離をおき、 この谷に来たんだ」
ノアは黙って火を見つめた。
外の世界には、 論理がある。
でも、 ここには理由がある。
ノアの中で、 なにかがゆっくりと動き始めた。