異邦者
季節がいくつも巡ったある日、谷に吹く風が変わった。外の世界のざわめきが、 村の奥にまで届きはじめていた。
「この静けさ、 どこか違う…」
ノアは気づいていた。 変化は音より先に、 空気を変える。
村の入り口に、 見慣れぬ男たちの影があった。
背広に似た服を着て、 平らな声で何かを話していた。
「再開発」「鉱脈」「補助金」──
その言葉は、 この谷では異物だった。
「ここに、 価値があるんですよ」
男たちは、 空を見上げながら言った。
ノアは父に尋ねた。
「外の人、 何しに来たの?」
父は静かに、 庭の柿の木を見た。
「時代の波は、 選ばずに押し寄せる。
でも、 どこに立って受け止めるかは、 自分で決められる」
ノアはそれを、 火を灯す“炉”の選び方に似ていると思った。
ミールは納屋で、 古い道具を磨いていた。
薬師のミナが来て言った。
「昔の道具には、 時代を超えた知恵があるの」
「今のやり方は速い。 でも、 速さだけじゃ心はついていけない」
ミールはふと、 水車の音を思い出した。
「急がなくても、 まわってた」
外の人たちは「効率」や「収益性」を語り、
村の古老たちは「暮らし」や「誇り」を語った。
「霧隠れの谷」という同じ言葉が交わされても、 心が交わることはなかった。
ノアは思った。
“名前が同じでも、 意味が違えば別の言葉だ”
老子が言った「名可名、 非常名」──
その意味が、 すこしだけ見えた気がした。
「これを見てください」
イサヤと呼ばれる男が口を開いた。
「土地の権利は大半を取得済み。 抵抗しても…意味はありません」
村の空気が凍りついた。
タツオが立ち上がる。
「意味は、 あるさ。 お前の“効率”じゃ測れんほどにな」
その背に、 静かな怒気が宿っていた。
「なぜそこまでして…」
ミールが震える声で尋ねた。
イサヤは答えた。
「ここは未開のレアアースの宝庫だ。 未来のインフラの源になる」
「でもそれはあなたたちの未来であって、 ここに生きる私たちの未来じゃない」
ノアは、 声を荒らげて反論した。
火が、 揺れた。
そのとき、 ひとりの男が谷に現れた。
黒衣に、 漆黒の鞄。 谷に似つかわしくない気配。
タカツミ──かつてイシュマと共に時間を過ごした男。
「大きなものが正しい、 という思考は都市にはびこる病だ」
彼は静かに言った。
「だが、 この谷にはそれを治す力がある」
囲炉裏の火が静かに揺れていた。 イシュマは寡黙に茶を淹れている。 タカツミが口火を切った。
「イサヤ。 君が求めているレアアース、 それがこの谷に眠っている可能性は高い。 だが──」
彼は机の上に一枚の紙を置いた。 谷の地質、 地下水脈、 植生の分布を示す図だった。
「ここに精製プラントを建てれば、 まず地中の水脈が切れる。 重金属は表層に漏れ、 山の水は数十年で濁る。 戻るには百年かかる。 いや、 完全には戻らないかもしれない」
イサヤは眉をしかめた。
タカツミは図面を静かに指差した。
「君の開発計画書、 読ませてもらった。 環境基準は満たしている。 だが、 その“基準”は都市部の目盛りで測ったものだ。 谷の生態系はもっと繊細だ。 基準以下でも壊れる」
イサヤは腕を組み、 少し語気を強めた。
「それは感情論だ。 私は国家の法に則って進めている。 専門家もつけている。 論点が違う」
タカツミは頷いた。
「法的には君が正しいかもしれない。 だが、 正当性と正義は違う。 君が今、 使おうとしている『法』は、 誰がどう作った?」
イサヤが返した。
「民意を反映した民主的制度のもとに――」
「それは君が信じている制度にすぎない」
タカツミが重ねる。
「“国家が認めればいい”、 その感覚が“第二の正義”を無効にしてきた。 環境も、 文化も、 声なき人々の暮らしも、 だ」
ミールがぽつりと漏らす。
「水がね、 変な味になったら、 誰が責任取るの?」
その言葉に、 イサヤはわずかに表情を動かしかけた。 だが次の瞬間には冷静さを取り戻していた。
「感情で投資は動かせない。 レアアースは国家戦略物資だ。 これに遅れれば、 国際競争で負ける」
イサヤは続けた。
「私は谷の持続可能性を否定しているわけではない。 ただ、 現実問題、 国は動き出している。 私は歯車に過ぎない。 誰かがやることだ」
タカツミはその言葉に、 皮肉まじりの笑みを浮かべた。
「なるほど。 誰かがやるなら、 自分がやる。 それで君は“選ばれる者”であり続けてきたんだな」
イサヤは目を細め、 しばらく沈黙した。
「私は…ただ…合理的に進めているだけだ」
その言葉には、 わずかな“裂け目”があった。
だが、 まだ彼の核心までは届いていない。
イサヤは、 しばらく谷に滞在することに決めた。