火の女
霧の中、 ふとした拍子に父が立ち止まる。
そして、 ぽつりと語った。
「ノア、 火は上に登り、 水は下に流れる。
人の本性も、 たぶんそんなふうに“向かう先”があるんだと思う」
ノアはその言葉を聞きながら、 自分は火なのか、 水なのか、 考える。
父の眼差しは、 霧の向こうを見ていた。
その先に、 まだ誰も知らない景色が広がっているような気がして。
その日、 父は焚き火のそばでこんな話をした。
「老子は、 “上善は水のごとし”と言った。
水は誰とも争わず、 低いところへ流れる。
でも、 岩をも穿つ強さを持ってる」
ノアは焚き火の炎をじっと見つめながら、
「でも水じゃ、 火は起こせないね」と返す。
父は笑った。
「だから、 お前は火なんだろう。火は闇を照らし、 寒さを温める。水と火は、 争うんじゃなくて、 補い合うものなんだ」
その夜、 ノアは夢を見た。
霧の谷に浮かぶ一筋の火と、 そこに静かに流れこむ透明な水。
それは、 ミールの姿と重なる。
姉とは違う、 静かで深い目をしたあの弟。
──火と水。
正反対で、 でもどちらも欠けてはならないもの。
ノアは目を覚ましたとき、 ひとつだけ分かった。
“わたしたちは、 ひとりじゃ完結しない。
誰かと補い合いながら、 自分の本当のかたちを知っていくんだ”
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谷の朝は、 静かに始まる。
鶏の声、 川のせせらぎ、 薪を割る音。
そして、 父の足音が土を踏む音。
ノアはその音のなかで育った。
時計ではなく、 自然のリズムで時を知る生活。
ある日、 父がこんなことを言った。
「人間の“時間”は、 時計じゃなくて、 自分の中にある。
急いで何かを成し遂げようとすると、 大事なものを見失う」
ノアは黙ってうなずいた。
言葉にならない何かが、 少しずつ染み込んでいく。
父はよく言っていた。
「人は“急げ”と急かされるが、 本当は“整えよ”が先なんだ。
整えば、 自然と動き出す。 老子の“無為”の思想だな」
朝、 畑を耕し、 薪を割り、 水を汲む。
誰も急いでいないのに、 毎日が驚くほどよく回っていた。
ノアは気づいた。
“動こうとしないときこそ、 一番よく動いていた”。
目に見えるものではなく、 流れそのものに従って生きる。
それが、 父の哲学だった。
ある晩、 父がぽつりと言った。
「たとえば火も、 水も、 “名前”があるからこそ意識できる。
でも、 “本当の本質”は、 名前のないときにこそ現れるんだ」
ノアは難しいなと思いながらも、
どこか腑に落ちるものがあった。
名前のない空気、 色のない霧。
そこにある“なにか”を、 感じ取る力。
それがあれば──
きっと、 自分の軸は見失わない。
ノアは夜の帳のなか、 焚き火の前で目を閉じた。
ぱちぱち、 と薪のはぜる音。
その奥に、 もっと静かな音があった。 ──自分の内側の音だ。その音に集中すると父の話が蘇ってくる。
「火ってさ、 見えるけど、 見えないんだよね」
ぽつりとノアが言うと、 父が笑った。
「よく気づいたな。 火は“熱”だ。
光でもなく、 形でもない、 “流れ”のようなものだ」
ノアはうなずいた。
火のように──目には見えずとも、 確かに在るものを信じたいと思った。
「昔、 外の世界では、 早く、 大きく、 強くなることが“成功”だった。でも、 谷に来てわかったんだ。 “深く、 静かに、 生きること”が本当の力だと」
ノアは火を見つめた。
「小さな火も、 ずっと燃え続ければ、 闇を照らす」
ノアは知らぬ間に、 小さな決意をしていた。
いつか、 自分の火で、 誰かを照らしたいと。
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ミールは、 小さな小川のほとりにいた。
「水って、 不思議だね。 触ろうとすれば流れてく。
でも、 ちゃんとそばにいる」
ミールはそう言って、 手のひらですくった水を、 ノアに見せた。
指の隙間から零れ落ちる水は、 言葉のようだった。
「火と水って、 違うようで、 どこか似てる」ノアがつぶやいた。
「どこが?」
「どっちも、 手に取れない。 だけど、 生きるのに必要なんだ」
ミールはしばらく考えてから、 ふっと笑った。
「そういうとこだけ、 お父さんに似てるね」
ノアは照れくさそうに、 笑い返した。
その夜、 二人は囲炉裏を囲みながら、 父と向き合っていた。
「おまえたちは、 違う道を歩むことになるかもしれない。だが、 火と水は争わない。 ともに、 この谷を支えてきた」
イシュマの声は、 静かで深かった。
ノアはミールと目を合わせ、 ただ黙ってうなずいた。
翌朝、 ノアは山へ、 ミールは川へと、 それぞれの道を歩き出した。
「別々に行くの、 ちょっと変な感じ」
ミールが笑った。
「でも、 また夜には会える。 いつも通り」
ノアはそう言って、 振り返らずに山道へ進んだ。
ふたりはまだ、 これが“始まり”だとは知らなかった。