霧隠れの谷
“名づけられるものは、 すでに本質から離れている。 ”
霧が常にたちこめる谷では、 ものの境界も、 言葉の輪郭もあいまいになる。
父は言った——
「この霧は、 谷の外からやってくる悲しみを、 うまく包んでくれてるんだよ」
父が話すことは、 どれもどこか比喩じみていた。
けれどノアは、 それが嫌いではなかった。
むしろ、 霧のようにぼんやりとした言葉の奥に、
なにか柔らかく、 静かな真理がある気がしてならなかった。
「言葉になる前の世界って、 あったんだよね」
彼女はそう呟き、 囲炉裏の火に薪をくべた。
ノアは谷の静寂の中で、 言葉になる前の世界の感覚を想う。
弟のミールは、 まだ夢の中にいた。
彼は水のような子だった。
かたちなく、 だが深く、 流れに沿ってあらゆるものを映していく。
ノアとは対照的な感性を持ち、 だからこそ彼らは補い合う存在だった。
「今日も霧、 深いね」
起きてきたミールがぽつりと呟く。
谷の奥で、 二人の時間がまた始まる。
水のような弟ミールと火のような姉ノア。 霧の朝、 静かに一日が始まる。
「なあ、 ノア。 光って、 どうして見えるの?」
ミールの問いは唐突だった。
ノアは囲炉裏の火を見つめながら言った。
「光は、 闇があるからだよ。 霧があるから、 光が浮かび上がる」
霧に包まれた世界では、 すべてがあいまいだ。
けれどその分、 目に見えぬ“輪郭”を感じることができる。
ミールの問いにノアは「闇があるから光が浮かぶ」と答える。 霧が象徴するものは、 曖昧な輪郭の中にある気配。
ノアの頭の中に、 父・イシュマの言葉がよぎる。
「形あるものは壊れ、 名づけられたものはやがて名だけが先に立つ。
だから“無”から観よ。 “名”にとらわれずに」
ノアはまだ“無”を理解しきれていない。
けれど、 目に見えぬ感覚で“何か”を感じとろうとしていた。
それが父の教えであり、 谷で生きるということだった。
「今日は霧が深いよ。 気をつけて行くのよ」母はふたりを見送りながら言った。
ノアは小さくうなずき、 ミールの手を取って歩き出す。
霧に沈む足元で、 カサッと落ち葉が鳴いた。
その音が、 不思議と心に残った。
それは、 物語のはじまりの音だった。
________
山道を歩くふたり。
ミールが指をさす。 「あれ、 昨日の木だよ」
ノアが笑う。 「それ、 今日も言ってる」
同じ霧、 同じ風、 同じ石ころ道。 けれど歩くたび、 何かが少しずつ違う。
ノアは心の中で問いかける。
昨日と今日で、 同じものは本当にあるのだろうか。
それとも、 違っているのは「見えている自分」の方なのだろうか。
昔、 父にこう言われたことがある。
「この世で変わらないものは、 “変わり続ける”ということだけだ」
ノアはその意味を、 歩きながら噛みしめていた。
霧の中で変わる木々のかたち、 足音の響き、 心の動き。
昨日とは違う今日が、 確かにここにある。
けれどその「違い」を受け入れるのは、 思ったより難しい。
「変わること」を許すことは、
「今の自分」を疑うことに似ていた。
「変わることを恐れるな。 むしろ、 変わらないことのほうが怖い」
父の言葉は、 時に風より重く響いた。
ノアは立ち止まる。 霧の先に見える、 かすかな光。
その先に何があるのか、 誰にもわからない。
けれど、 わからないからこそ歩くのだと、
霧の谷に生きる者たちは知っていた。
霧は、 問いそのもの。
答えはいつも、 霧の奥にあった。
ノアが腰を下ろすと、 ミールも隣にちょこんと座る。
風が、 ゆっくりと草を揺らす音がした。
「ねえノア、 なんで霧って出るの?」
ミールの問いに、 ノアは少し考えてから答える。
「きっとね、 空と地面が、 仲良くなりたいときに出るんだよ」
ミールは目を丸くして笑った。
その笑顔を見ながら、 ノアは思う。
目に見えないものの理由を、 理屈ではなく詩で答える父を、 少しだけ理解できた気がした。
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父はかつて、 世界の最前線で言葉と数字を武器に戦っていた人だった。
変化を恐れず、 むしろ変化を“設計”する側だったという。
でも、 あるときそのすべてを手放して、 霧の谷へやって来た。
「世界を変えるより、 自分の“見方”を変える方がずっと難しい。
でも、 それができたとき、 本当に変わるのは“世界”の方なんだ」
父は、 そんなふうに話していた。
その夜、 焚き火のそばでノアは父に尋ねた。
「なんでこの谷を選んだの?」
父は少し考え込んで、 火を見つめたまま答えた。
「炎ってさ、 じっと見てると“揺らぎ”があるだろ? あれはな、 決まった形がない証拠なんだ。
でも、 その“定まらなさ”の中に、 真理が隠れてると私は思った」
父の声は静かだった。
霧のように、 そして火のように、 ゆらりと心に届いた。
翌朝、 谷には濃い霧が立ち込めていた。
ノアは、 父とともに山の上に向かって歩き出す。
「今日の霧は深いな。 まるで、 自分の中の考えみたいだ」
父の言葉に、 ノアは頷く。
見えないものの中を進むというのは、 不安で、 だけどどこか安心でもある。
「ちゃんと見えないことが、 悪いとは限らないんだよ」
そう言って父は、 霧の中に足を踏み入れた。
山道を登る途中、 父はこんな話をした。
「お前たちは、 これからたくさんの“名前”を覚えるだろう。
でも、 本当に大事なものほど、 “名付けられない”んだ」
ノアは黙って歩きながら、 それがどういう意味なのかを考える。
花の名、 星の名、 数式、 理論…。
でも、 霧の温度や、 風の優しさには名前がない。
そしてふと思う。
自分の“好き”や“怖い”という感情も、 言葉では言い表せないことがある。
「ノア。 名づけるってことは、 切り分けるってことなんだ」
父のその言葉は、 どこか老子の言葉に似ていた。
“名可名、 非常名
ー 名は名であって、 常に名にはあらず”
名前をつけた瞬間に、 世界は分かたれてしまう。
名づけられる前の“混沌”こそが、 すべての始まりだったのではないか。
「でも、 それでも人は名づけることで、 自分の世界をつくってきた。
だから大切なのは、 その“名”に縛られすぎないことだ」
霧の奥に、 何かが見えた気がした。