7月1日(火):国民安全の日
朝は、しとしとと降る霧雨が路地を濡らしていた。
山本家のリビングでは、いつもの朝食風景。食卓には澄江が炊きたてのご飯と味噌汁を並べ、結衣が焼き魚に刻んだ大葉を添えていた。
テレビからは落ち着いた声でアナウンサーが告げていた。
「本日、7月1日は“国民安全の日”です。1960年に労働災害や事故の防止を目的として制定されました。安全は、すべての暮らしの基盤です——」
「へぇ、そんな日なんだ」
パンを口に運びながら、翔太が新聞を読みつつつぶやいた。
「そう。私たちが安心して毎日を過ごせるのも、誰かが“安全”のことを考えてくれてるからなのよ」
結衣の言葉に、愛も頷く。
「それって、たとえば信号機とか、通学路とかも?」
「もちろんよ。公共だけじゃなくて、家庭の中もね」
澄江が海斗の方を見て微笑んだ。
海斗は少し考えて、「じゃあ、家の階段に滑り止め貼るのも“安全”?」と尋ねた。
「立派な安全対策じゃな」
勝が静かに湯呑を置きながら、懐かしそうに話し始めた。
「わしがまだ現役の校長だった頃の話じゃ。ある年、卒業したばかりの教え子が、勤め始めたばかりの工場で大きな事故に遭った」
その瞬間、食卓の空気が少し静かになった。
「高所作業中に、安全ベルトを付け忘れてしまってな。ほんの一瞬の油断だった。命には別状なかったが、重いけがを負ってしまった。
彼は“自分は大丈夫”と思っていたんじゃろう。“ほんの数分だから”と…」
「……」
海斗が黙って耳を傾けていた。
「“安全”というのは、誰かのために考えることなんじゃよ。自分がケガをしないため、だけじゃない。
家族に心配をかけないため、周囲に迷惑をかけないため…つまり、“思いやり”の形なんじゃ」
「……安全は、やさしさ……か」
翔太が小さくつぶやいた。
その夜、夕食のあとのひととき。
翔太は海斗を誘って、玄関と階段の安全チェックを始めた。
「さて、我が家の“安全工事”始めようか」
「わーい!ぼく、工具箱持ってくる!」
海斗は張り切ってドライバーや滑り止めテープ、懐中電灯まで抱えてきた。
「階段のこのへん、朝バタバタするとすべりやすいからな」
翔太が指差したのは、木の質感がつるりとした踏み板の角。
そこに、目立たない色の滑り止めテープを慎重に貼っていく。
「お父さん、まっすぐになってる?ボクが押さえてるから!」
「うん、ナイス補助。こうやって“ちょっとしたこと”が、大事なんだよ」
「思いやり工事だね!」と海斗が笑った。
2階から降りてきた愛がその様子を見て、にっこり。
「わ、まるでリフォーム番組みたい」
「こういうのも“家のデザイン”だよな。使う人のことを考えて、安心して暮らせるように工夫する」
翔太のその言葉に、愛は大きくうなずいた。
「じゃあ、私は“住まいの安全を描くデザイナー”目指そうかな」
結衣も階段下に顔を出して、「傘立ての下にも吸水マット敷いておこう」と追加提案。
「ほんと、家の中にも“危ない場所”って意外と多いのよね。こうして気づけるのって、家族ならではだわ」
リビングに戻ると、勝が孫たちに語りかけた。
「人は誰しも、“まさか自分が”と思ってしまうもんじゃ。でも、“まさか”はいつも、備えの隙間から忍び寄ってくる。
だからこそ、日々の小さな配慮が大事なんじゃよ。そういう暮らしこそが、ほんとうの豊かさじゃ」
夜、海斗が絵日記を書いていた。
左ページには、階段に滑り止めを貼る自分とパパの絵。
右ページには、大きな字でこう書かれていた。
> 「やさしさで、すべり止めをつけた。
> すべらないように、すべらせないように。
> ぼくも、だれかの“安全”になりたい。」