5月31日(土):世界禁煙デー
山本家の庭では、紫陽花の蕾がふくらみ始めていた。
土曜日の朝食は、勝特製の「ほうじ茶粥」。香ばしい湯気が食卓にふんわりと広がる。
「今日、5月31日は“世界禁煙デー”なんだって」
新聞を読んでいた翔太がふと声をあげた。
「禁煙デーってことは…吸ってる人に向けた日?」と海斗。
「そう。でも本当は、“吸わない人を守る”って意味もあるのよ」と結衣が優しく補足した。
「そうそう、たとえば受動喫煙の防止とかね」と愛がスマホを見ながら頷く。
そのとき、勝が静かにお茶碗を置いた。
「……昔な、おじいちゃんも若い頃は、たばこを吸っていたことがあった」
「えっ、ほんとに?」と海斗が驚く。
「校長先生だったのに?」と愛も少し意外そうな顔をする。
勝はゆっくりと語り出した。
「教師になってすぐの頃、職員室では普通に煙が立ち込めていた。誰も疑問を持たなかった時代だったよ。だが、ある日、教室で子どもがこんなことを言った。“せんせいの服、たばこのにおいがする”ってな」
「……」
「その一言で、やめたんだ。子どもの言葉って、心に響くもんだな」
翔太も少し神妙な顔になりながら言う。
「俺の職場にもまだ吸う人はいるけど、やっぱり外で吸っても服ににおいがつくし、正直、もう時代じゃないよな」
「お父さん、吸ってたことは…?」と愛。
「いや、大学のとき一度だけ挑戦して、むせて終わった」と苦笑い。
「弱っ!」と海斗が爆笑する。
勝が穏やかに言う。
「“吸わない”“吸わせない”というのは、自分の健康だけじゃなく、周囲への思いやりでもある」
「そうだよね。お母さん、お店でも禁煙にしてるんでしょ?」
「うん、地域のカフェとして、子ども連れのお客さんにも来てもらいたいし。空気も雰囲気も、きれいな場所でありたいと思って」
午後は「健康意識デー」として、家族で近所の丘まで散歩へ。
勝と澄江はゆっくり歩きながら、季節の草花を眺めている。
愛はカメラを手に、咲き始めた紫陽花の色合いを撮影していた。
海斗は、小さな声で結衣に尋ねる。
「ねえ、ママ。なんでたばこって、体に悪いのに、売ってるの?」
結衣はしばらく考えてから、静かに答えた。
「うーん、色んな大人の事情もあるんだろうけど、私たちは“選べる”ってことが大事だと思うの。だからこそ、“吸わない”って選ぶ人が増えたら、社会も変わっていくんじゃないかな」
「ふーん……ぼくは絶対吸わないよ」
その言葉に、結衣が微笑んで「頼もしいな」とつぶやいた。
帰宅後、勝が書斎から一冊の古いノートを取り出してきた。
「これはな、わしが禁煙を始めた年につけていた“健康記録ノート”だ」
「なにこれ、毎日の歩数まで書いてある!」と海斗。
「最初は、“たばこの代わりに健康を数える”って気持ちだった。やがてそれが習慣になって、自分を守る方法になったんだよ」
「それって…ちょっとカッコいいかも」と愛。
「じゃあ私も、今日から“毎日の心リセット日記”でもつけてみようかな」
「なにそれ、どうせ三日坊主になるやつ」と翔太が笑う。
「失礼な!ちゃんと続けるもん」とむきになる愛に、家族がくすくすと笑い出した。
その夜、食卓に並んだのは、澄江特製の「体にやさしい野菜粥」と「大豆ハンバーグ」。
「禁煙の日に、体にいいものを食べるって、いいアイデアだよね」