5月27日(火):百人一首の日
朝、山本家のダイニングには湯気の立つ味噌汁と、澄江の焼き鮭が並ぶ。穏やかな光が差し込むなか、新聞を読んでいた勝がふと声をあげた。
「おや、今日は“百人一首の日”らしいぞ。藤原定家が小倉百人一首をまとめた日だそうだ」
「へえ、そうなんだ?」と結衣が箸を止め、顔を上げる。
「百人一首って、あの…札をとるやつだよね?」と海斗が首をかしげる。
「そうそう、上の句を詠んで、下の句の札を取るんだよ」と愛がスマホをちらりと見ながら補足する。
「昔、学校の行事でやったなあ。正直、ほとんど取れなかったけど」と翔太が苦笑すると、勝はにやりと笑って立ち上がった。
「それなら、久しぶりにやってみるかね?うちには、ちゃんとした木札の百人一首があるんだよ」
愛が驚いたように言った。
「おじいちゃん、それいつの?」
「ふふふ、まだ私が教師だった頃、授業用に買ったものさ。札の角が丸くなっているだろう。子どもたちが何度も触った証拠だよ」
夕方、海斗が学校から帰宅すると、すでに和室には座布団が並べられ、床の間の下に百人一首の札が丁寧に並べられていた。
「うわ、なにこれ!本格的じゃん!」
「せっかくだから、今夜は“山本家 百人一首大会”を開くのだ」と勝。
「なんだか勝てる気がしない…」と愛がつぶやくと、澄江が微笑みながら言った。
「でも、言葉を味わう時間になると思うわよ。ねえ、結衣さん?」
「うん、私も久しぶりにやりたいな。今日は夕飯を早めにして、その後にしようか」
そして夜。リビングのテレビを消して、全員が和室に集まった。
読み手はもちろん、元校長の勝。声に張りがあり、どこか品もある。
「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川」
「はいっ!」
思わず飛び出したのは海斗だったが、札は愛の手元に。
「くぅ~!ちょっと早いよ、お姉ちゃん!」
「ふふ、勝負の世界は厳しいのよ」
続く一首――
「わびぬれば 今はたおなじ 難波なる…」
「こいもしらぬを 思ふなりけり!」
海斗が叫んだ。が、手は届かず。翔太がすんでのところで札を取った。
「やった、これは高校のときに覚えたやつ!」
「お父さんが取るなんて珍しいね」と愛がつぶやくと、「失礼な!」と翔太が抗議する。
しかし、一番強かったのはやはり――勝だった。
「君がため 春の野にいでて 若菜つむ」
すっと札を取る勝。
「…これ、僕の手元にあったやつだ!」と海斗が悔しがる。
「これはな、毎年新春に思い出す歌なんだよ。若菜摘みは平安時代の風習でな――」
話し出すと止まらない勝に、翔太が笑いながら「先生モードが始まったぞ」とつぶやく。
途中からは札を取るよりも、詠まれる歌に耳を傾ける時間になっていた。
「花の色は うつりにけりな いたづらに」
「これ、なんか…切ないね」
愛がぽつりとつぶやいた。
「美しかった花も、時間と共に色褪せていく――そんな移ろいの中に、人の心を重ねたのだろうな」と勝。
「でも、残るものもあるよね?」と海斗。
「そうだとも。こうして、言葉として残り、人から人へ語り継がれる」
結衣が温かいお茶を注ぎながら言った。
「そうやって繋がるのって、家族の言葉と同じかもね。毎日の“おはよう”や“いってらっしゃい”も」
翔太が頷いた。
「毎日の積み重ねが、きっと記憶の中に残っていくんだな」