4月15日(火):よい子の日
「おめでとう」
朝、ダイニングに入ってきた海斗が、勢いよく声を上げた。
「今日だけはお姉ちゃんに逆らわないって決めたからね!」
「……それ、なんか前置きが気になるんだけど」
愛は制服の襟を整えながら、それでも嬉しそうに笑った。
「19歳、おめでとう」と翔太がコーヒーを持ってきて言うと、
結衣も「今夜はお祝いごはんよ」と声を弾ませる。
「お赤飯、炊こうかしら。ケーキは……どうする?愛、リクエストある?」
「えーっと……チーズケーキがいいな」
「了解。じゃあ、海斗、帰ってきたら買い物付き合ってね」
「お姉ちゃんのためなら任せて!」
「ほんとに?」
「もちろん!よい子の日だし!」
そのやり取りを、勝と澄江は微笑ましく見守っていた。
「19歳か。あっという間だな。昔はよく、ケーキのいちごをめぐって海斗とケンカしてたっけ」
「いまでも、お姉ちゃん、最後にいちご食べるもんね」
「それは譲れないの」
愛は今日も大学に行っている。朝の通学中、イヤホンを耳にさしながら、小さく口元を緩めた。車窓の外には満開の桜が流れていく。
大学に着くと、1限はデザイン理論の講義だった。ノートを取りながら、ふと窓の外に視線をやると、光が差し込んでスケッチブックの表紙がやさしく輝いていた。
授業の合間、カフェテリアでスケッチブックを開く。
「誕生日なのに勉強してるの?」
同じ学部の友人に聞かれて、愛はにこっと笑った。
「うん。でも、これは好きなことだから全然いいの」
「誕生日のイラストとか描いてみたら?」
「それ、いいかも」
スケッチブックには、ケーキとロウソク、そして笑っている家族の絵が描かれていく。背景には、リビングの観葉植物や和室の刺繍クロスのモチーフもこっそり入れてみた。
「テーマは、“わたしの今”かな」
描きながら、ふと祖父・勝の顔が浮かんだ。昔から、物語と絵が好きだった自分を、いつも肯定してくれた人。
午後の講義のあと、構内のベンチで一息ついて、スマホを開いた。LINEで結衣に「チーズケーキのリクエストは変わってないよ」とメッセージを送る。
返信はすぐに来た。
「了解!いいの買ってくるから、楽しみにしててね」
愛はスマホをしまって、少しだけ空を見上げた。風が春の匂いを運んでくる。
夕方、海斗と結衣が買い物から帰ってきた。
「ただいまー!お姉ちゃん、チーズケーキ、いいのあったよ!」
「ありがと。海斗、今日は本当に“よい子”だね」
「ふふん。今日だけはお姉ちゃんの僕だから」
「今日だけ、ね」
翔太は仕事から早めに帰宅し、リビングでは勝がこっそりプレゼントの包装をしていた。
「なんだろう、それ」
「ナイショ。でも、ヒントは“本”かな」
「本かあ……まさか、また難しそうな哲学書じゃないよね?」
「ふふ、それは開けてのお楽しみだよ」
キッチンでは、結衣がチキンをオーブンに入れ、澄江が副菜の盛り付けをしていた。
「この盛り付け、もう少し色味を加えようかしら」
「お義母さんのセンス、さすがです」
「あら、そう言ってもらえると、やりがいあるわね」
夜。テーブルには赤飯とローストチキン、そして色とりどりの副菜が並ぶ。庭のローズマリーを添えたサラダや、手作りの煮物も。
「主役はこのチーズケーキ!」と結衣がケーキを出すと、家族から歓声が上がる。
「ハッピーバースデー、愛!」
「ありがとう、みんな」
ロウソクの火を吹き消す瞬間、愛の顔にふっと光が射した。
「それじゃあ、プレゼントの時間です」と勝が本を差し出した。
「開けてごらん」
中には、美しい装丁のアートブック。
「これ……わたしが好きなイラストレーターの!」
「大学に入って、デザインを学ぶ愛へのエールだよ。たくさんの世界を見て、吸収して、絵に活かしてほしい」
愛は本を抱きしめるように持ち、「ありがとう、おじいちゃん」と目を潤ませた。
「今夜は特別に、デザートもう一品あるのよ」
澄江がそっと運んできたのは、小さな抹茶ゼリー。
「おばあちゃん特製。優しい味で、心を落ち着けてね」
「ありがとう、おばあちゃん」
食後、海斗がそっと言った。
「ねえ、お姉ちゃん。来年は“よい子の日”じゃなくても、僕、優しくするかも」
「え、ほんと?」
「……たぶん」
「それ、録音しておこうかな」
「やめてよー!」