4月9日(水):大仏の日
夕方のリビングに、勝の声が響いた。
「今日は“大仏の日”なんだぞ」
「えっ、大仏?なんか急にスケール大きくない?」
ソファに座っていた愛が笑いながら顔を上げた。
「そう。752年の今日、奈良の東大寺で大仏さまの“開眼供養”が行われた日だ。日本史でも有名だろう?」
「うん、世界史じゃ出てこないけど、ちゃんと日本史では習ったよ」
愛が頷くと、海斗がピクッと反応した。
「奈良の大仏って、あの超でっかいやつでしょ!?修学旅行で行くって聞いた!」
「その通り」
勝が満足そうに頷くと、棚の引き出しから一冊の古いアルバムを取り出してきた。
「見てみろ、わしが若い頃に行ったときの写真だ。これは昭和の修学旅行のときだな……」
「わ、モノクロじゃん!」
海斗が身を乗り出す。「おじいちゃん、髪の毛フサフサじゃん!」
「余計なことを……」
勝が苦笑しながらアルバムを開き、1枚ずつ丁寧にめくっていく。
「この時代の奈良はまだ観光地として整備されすぎてなくてな。鹿も今よりのびのびしてたし、東大寺も静かだった」
「静かな東大寺、いいなぁ……。あたし、今度写真素材集めに行きたいかも」
愛がぽつりと呟く。「木組みの柱とか、仏像の衣のひだとか、デザインとしてめっちゃ面白いんだよね」
「大仏の顔って、ちょっと優しすぎる気もするけど、なんか“見守られてる感”あるよね」
海斗が少し神妙な顔になる。
「それはな、“開眼供養”という儀式が意味する通り、大仏に“目が開かれ、魂が宿った”日なんだ。人々の願いや祈りが形になるというのは、当時の人にとって大きなことだったんだ」
「おじいちゃん、話すのうまいね」
愛が感心したように笑う。
「昔、校長だったからな」
「またその話!」
「いいじゃない、今日のテーマにぴったりよ」
結衣が台所から笑いながらお茶を運んできた。
「お母さん、奈良行ったことある?」
海斗が尋ねると、結衣はうなずく。
「あるわよ。高校の修学旅行で行ったわね。鹿せんべい、めっちゃ奪われた記憶が……」
「お父さんは?」
「もちろんある。でも、もう一度行きたいなあ。今度は“家族旅行”でさ」
「え、それって……行くってこと!?」
海斗が目を輝かせた。
「お小遣いためなきゃな」
翔太が新聞をたたみながらつぶやく。
「行くなら、ちゃんと文化財マナーも勉強してからね。触っちゃダメとか、撮影禁止とか」
愛が冷静に釘を刺す。
「よーし、じゃあぼく、大仏の模型を先につくって予習しておく!」
「また工作に走る……!」
愛が苦笑したところで、澄江がお茶菓子をそっと差し出した。
「今日は特別に“おおぶつまんじゅう”。ふっくら膨らんだ“ありがたい”おまんじゅうよ」
「なにそのセンス!」
一同が笑いながら、湯気の立つお茶と甘いお菓子を囲んだ。
夜、リビングにはゆったりした音楽が流れ、勝が最後にぽつりと言った。
「昔の人は、どうしようもないことがあると、“大きな存在”に祈った。今の時代も、心のどこかに“見守られている感覚”があれば、少し楽になるんじゃないかな」