4月8日(火):花まつり(灌仏会)
「行ってくるわよ。ほら勝さん、帽子かぶって」
「うんうん、わかってる。花まつりだものな、今日くらい外に出ておかんとな」
4月8日、火曜日。朝の山本家は、少しゆったりとした空気に包まれていた。平日だが、勝と澄江は近所のお寺で開催される「花まつり」へと出かける予定だ。
「おじいちゃん、花まつりって何するの?」
海斗がパンをかじりながら尋ねる。
「お釈迦さまの誕生日を祝う日なんだよ。“灌仏会”とも言ってな、花で飾ったお堂で、甘茶を仏様にかける儀式があるんだ」
勝が優しく説明する。
「へぇー!甘いお茶!? 飲んでみたい!」
「今日は帰ったらふるまってあげるよ。お釈迦さまと同じように、優しい気持ちになれるかしらね」
澄江がにこやかに笑う。
一方、愛はキッチンで軽く朝食をとりながらスマホを操作していた。
「うーん、新幹線、今日はちょっと混んでるかも。あんまりギリギリに行かないほうがいいかな」
「慣れそう?」結衣が声をかける。
「うん。大学の空気にも、だんだん入っていけそう。課題はまだ出てないけど、クラスの雰囲気もなんか面白いかも」
「そうか。それなら安心ね。無理せず、ゆっくりでいいのよ」
「ありがとう。じゃ、行ってきます!」
愛が玄関を出ると、勝と澄江も後に続く。
「お互い、花まつりと通学。それぞれ“今日”を楽しもうな」
「うん、おじいちゃんも、転ばないようにね!」
午前10時、勝と澄江はお寺に到着。境内には色とりどりの花が飾られ、小さな仏像の上から甘茶を注ぐ参拝者たちが静かに列を作っていた。
「やっぱり、こういう空気、落ち着くねぇ」
澄江がつぶやく。
「花の香りが混ざったこの匂い……春だなあ」
勝は目を細めながら手を合わせる。
近くでは小さな子どもたちが、甘茶をこぼさないように慎重にひしゃくを動かしていた。
「海斗にも一度は体験させてやりたいな」
「そうねぇ。花に囲まれて、優しいことを思い出す日……って、素敵よね」
夕方、家に戻った勝と澄江は、リビングで甘茶を沸かしていた。ほんのり香ばしい香りが漂い、家の空気がやわらかく染まっていく。
「おかえり〜、どうだった?」
翔太がネクタイをゆるめながら出迎える。
「立派だったよ。お堂もお花でいっぱいでね。ちゃんと甘茶ももらってきたのよ」
「お姉ちゃん帰ってくるまでに冷ましとこうか?」
海斗が興味津々で湯気をのぞく。
「あとちょっとで帰ってくる頃だと思うよ」
結衣が玄関のほうをちらりと見る。
数分後、「ただいまー!」という声とともに、愛がリュックを背負って帰宅した。
「おかえりなさい。ちょうどよかったわね。さぁ、今日は甘茶で乾杯よ」
家族全員がコップを手に取り、それぞれの位置に座った。
「じゃあ……新しいスタートに、和やかな時間を」
勝が音頭を取る。
「かんぱーい!」
ほんのりとした甘さと、かすかな香ばしさが舌に残る。
「おいしい。なんか不思議な味」
愛が笑う。
「ぼく、これ毎日飲みたい!」
海斗が叫ぶと、翔太が笑って肩をすくめた。
「お釈迦さまもびっくりだな」
「たまにはこうして、季節の行事を丁寧に過ごすのもいいわね」
結衣が静かに言った。
「うん。毎日せかせかしてると、こういう気持ち、忘れちゃうから」
愛が小さく頷いた。
「“優しさ”を思い出すって、案外むずかしいけど――、だからこそ、こういう日は大事なんだな」