4月4日(金):ピアノ調律の日
「今日は大事な日だから、早めに起きてね〜!」
結衣の声が台所から家中に響いた。いつもより早い朝。山本家の食卓には、緊張と期待が静かに漂っている。
「愛、起きてるか?スーツにアイロンかけておいたぞ!」
翔太の声も重なるように階下から飛ぶ。
「うん……起きてる……けど、ちょっとお腹が……変な感じ……」
2階から降りてきた愛は、紺のスーツ姿。髪を丁寧に結び、いつもより少し大人びた表情だ。
「立派な大学生だな」
勝が新聞をたたんで笑う。「緊張してる顔も、なかなか凛々しいぞ」
「からかわないで、おじいちゃん……」
「緊張して当然さ。今日はお前の“第一歩”だ」
翔太が肩をポンとたたく。
「じゃーん!僕もちゃんと制服着たよー!」
海斗が得意げに登場する。少しよそ行きのシャツに着替え、髪もなんとなく整っている。
「海斗、それ入学式の主役じゃないでしょ?」
愛が笑うと、海斗はふくれた顔で言い返す。
「えー、でも僕も一緒に行くんだし、カッコよくしたいじゃん!」
「まぁまぁ、今日はみんなで行くんだから」
結衣が愛の前にそっと湯呑を置いた。「朝ごはん、食べられそう?」
「少しなら……」愛はそっとおにぎりを手に取る。「お母さんのゆかりおにぎり、食べやすくて助かる」
「それなら、ちょっと気分転換にピアノでも弾いてみたら?」
勝がふと思いついたように言った。「昨日調律してもらったばかりでな、音がとても澄んでいる」
「ピアノ……うーん、ちょっとだけなら」
リビングにあるアップライトピアノの前に座った愛が、そっと鍵盤に手を置く。小さな頃に弾いていた「春のそよ風」が、柔らかく流れ始めた。
ポロン、ポロロン……
「お姉ちゃんの音、春っぽい!」
海斗が素直に声をあげる。
「ほんとだね。気持ちがふわっと軽くなるわ」
澄江が微笑みながら言う。「音って、体も心も整えてくれるのね」
「やっぱり音楽ってすごいね」
翔太も腕を組みながら、愛の演奏に耳を傾けている。
「私、なんだか落ち着いてきた」
愛がそっと息を吐いた。「ありがとう、おじいちゃん」
「どういたしまして。ピアノの調律みたいに、心もきちんと整えてから出発するんだよ」
桜の花びらが舞い落ちる中、山本家全員が並んで歩いていた。愛は真ん中に立ち、周囲から見ればまるで“ファミリー代表の主役”。
「お姉ちゃん、大学生ってどんなところ?」
海斗がそばで質問を繰り返す。
「うーん、まだ私も分からないけど……たぶん、自由で、忙しくて、楽しくて……」
「欲張りか!」翔太がツッコむと、みんなが笑った。
「記念写真、撮るわよ〜」
結衣がスマホを構え、全員を整列させる。「はい、チーズ!」
パシャ。
「撮れた撮れた。ちゃんと写ってる、海斗の変顔も」
「ええー!消してー!」
式が始まる直前。愛はふと、ピアノの音を思い出していた。家を出る前に弾いた、あの一音一音が、今の自分を少し後押ししてくれているような気がする。
「愛、がんばってね」
澄江がそっと手を握る。「大丈夫、あなたなら大丈夫よ」
「……うん、行ってくる!」
背筋を伸ばして会場へ歩き出す愛。その後ろ姿を、家族みんなが誇らしげに見つめていた。
「入学式、思ってたよりすごかった……人の多さにびっくりしたよ」
「でもちゃんと写真も撮ったし、話も聞けたし。良い日だったね」
結衣が笑いながらお茶を出す。
「明日から、大学生活本番だ」
翔太が言うと、愛は真顔でうなずいた。
「そうだね。……でも、家族で行けてよかった。支えられてるなって思ったよ」