4月1日(火):エイプリルフールの日
「おはよう!」
朝7時、山本家のリビングダイニングに海斗のにぎやかな声が響いた。まだ眠そうな顔の愛はソファでスマホをいじりながら、ちらりと弟の方をにらむ。海斗はそんな姉の様子をよそに、何やら怪しげな笑みを浮かべている。
「お姉ちゃん、今日は学校あるの?」
海斗が無邪気な口調で尋ねると、愛は怪訝な顔をして答える。
「あるわけないでしょ。大学はまだオリエンテーション前だし、そもそも今日はエイプリルフールでしょ?変なウソつくつもりなら、やめてよね」
「いやいや、ウソじゃないかもしれないよ?」
海斗はそう言うなり、さっと愛のスマホを指さして続ける。
「お姉ちゃん、今スマホに変な通知きてたよ。『大学休講、全日程無期延期!』って——」
「はいはい、やめなさい」
そこへ結衣がキッチンから顔を出す。朝食の準備で忙しいのか、エプロン姿のまま軽く息を吐いた。
「海斗、朝からお姉ちゃんをからかうんじゃないの。エイプリルフールでも、冗談の度が過ぎると怒られるわよ」
「ふふん、でも今日は僕の“正当な権利”だもん!」
海斗はそう言って、一瞬でリビングを駆け抜ける。愛は「ちょっと!」と声を上げるも、その後を追いかける気力はないようだ。
「まったく、いつもこの時期になると、あの子のイタズラが倍増するんだから」
愛はソファに深く腰を下ろしながらため息をつく。その肩をポンと叩いたのは翔太だ。スーツ姿でネクタイを締め直しながら、苦笑いを浮かべている。
「海斗は海斗なりに、春の訪れを楽しんでるんだよ。まあ、元気があっていいじゃないか。愛、お前は準備どうだ? 大学入学式が近いんだろう」
「うん……緊張してるけど、楽しみかな。新しい友達ができるか不安だけど」
愛がそう言うと、翔太は新聞を小脇に抱え、「きっと大丈夫だ。お前はしっかりしてるし、気の合う仲間もすぐ見つかるさ」と励ます。
ちょうどその時、祖父の勝と祖母の澄江が入ってきた。勝は新聞の文化欄を読みながら、「今日は海斗が何かやらかしそうな気がするぞ」
勝がそう言うや否や、今度は海斗の「わあぁ!」という声が聞こえてくる。リビングに戻ってきた海斗は、なぜかカラフルなガムテープの切れ端を手にして、満足げな表情を浮かべていた。
「どうしたの、そのテープ」
結衣が怪訝そうに尋ねると、海斗は得意げに胸を張る。
「へへ、ちょっと家の中のドアノブに貼ってきただけ」
「ドアノブに……貼る?」
愛がスマホを置き、眉をひそめて問い返す。
「まあ、ただのイタズラだってば。引き戸を開けようとすると、手にピタってつくようにしてみたの!」
「えっ、ちょっとそれ、みんな引っかかるじゃん! もう、朝から手間増やさないでよ!」
愛は立ち上がって呆れた様子。だが、真剣に叱ろうとする気配はあまりない。毎年恒例の“海斗のエイプリルフール騒動”には、家族みんながなんとなく慣れているのだ。
「まあまあ、みんな落ち着け」
翔太が両手を広げて仲裁を図る。
「俺もそろそろ仕事に行かないと。ウソの通用しない世界へね。ははは」
「お父さん、それ笑えないからね!」
愛が半分本気で突っ込むと、翔太は「冗談だよ」と言いながら、ネクタイを直し玄関へ向かう。
「いってらっしゃい!」
家族全員で見送ると、玄関のドアを閉める音とともに、少しだけ静けさが戻った。澄江は小さく笑いながら「さあ、私たちはお昼の準備でもしようかね」と呟き、結衣と一緒にキッチンへ向かう。
——数時間後。
「ただいまー!」
昼前に帰宅したのはなんと翔太だった。会社で新年度の挨拶を済ませた後、午後は有給を使って早帰りしたのだ。
「お父さん、どうしたの?」
愛がリビングに顔を出すと、翔太はニコニコと笑っている。
「いや、ちょっとしたウソ——いやいや、本当だよ。今日は会社が落ち着いたから、午後休をとったんだ」
「もう、紛らわしいこと言わないでよ」
愛が呆れたように言うと、海斗が勢いよく現れた。
「お父さん、帰ってきたの!? いいなあ!」
「こらこら、そういうこと言うな。第一、今日はお前が一番楽しそうにしてるじゃないか」
家の中はなんともいえない軽やかな雰囲気に包まれる。外はまだ少し肌寒いが、家族全員の笑顔が春の到来を感じさせるようだった。
夕方、リビングには家族が集まり始める。仕事を早く切り上げた翔太と、午前中だけカフェで働いた結衣、和やかに過ごした勝と澄江、そして海斗。愛は新生活の準備に追われながらも、家族が揃うリビングで一息ついていた。
「ところでさ、みんなは今日、どんなウソをついた? エイプリルフールだからって言っても、度が過ぎるとダメだからな」
翔太が茶化すように言う。
海斗はニヤリとしながら、かき集めたテープや紙切れを見せつける。
「もっといっぱい仕込んでるもん。これから夜まで、まだまだ楽しむからね!」
「はあ……本当に手が焼ける弟だわ」
愛がため息をつくと、勝が笑って「まあ、若いうちはいいさ。エイプリルフールぐらい、大いに楽しもう」と肩を竦める。
結衣がテーブルに軽いおやつを並べながら、「でも海斗、ちゃんと『嘘でした!』ってあとで言わないと、本気にする人がいるかもしれないよ」と優しく忠告した。
「わかってるって! 僕は人を不幸にするウソはつかないし、大丈夫!」
その答えを聞いて、リビングにいた全員が微笑んだ。ドタバタの一日でも、家族で笑い合える瞬間があれば、心がほぐれる。新年度の始まりはいつだって落ち着かないものだけれど、こうしてエイプリルフールが和やかな笑顔を運んでくれるのも悪くない。
夜が更ける頃、愛はふと空を見上げた。窓の外には、まだ少し肌寒い夜風が吹いている。
「今年度も、家族みんなで笑って過ごせるといいな」
そうつぶやくと、勝がそっと隣に立って微笑みかける。
「大丈夫さ。ウソを笑い合える家族なら、きっとなんだって乗り越えられる」
最後に海斗が背後からひょっこりと顔を出し、「今のおじいちゃんの言葉、ウソ? 本当?」とからかうように聞いた。
「当たり前だろう、本当に決まってる」
勝は少し照れくさそうに言って、くしゃりと海斗の髪を撫でる。
その優しい手のぬくもりに、愛も思わず笑みを浮かべた。エイプリルフールの冗談に満ちた一日は、家族の絆をもう少しだけ強くしてくれたようだ。
「ねえ、もうそろそろウソはおしまいにしてよ? このまま夜になったら、夢と現実の区別がつかなくなりそう」
愛が苦笑すると、海斗は「じゃあ、あと一回だけ!」とちゃっかり宣言し、家族中をまた笑わせる。
そんな賑やかな声に包まれた山本家の4月1日は、ちょっぴり騒がしく、だけどなんとも幸せな冗談と笑いの一日になった。
最後に勝が小さくつぶやく。
「やっぱり、こういう何気ない笑いこそが家族の宝だな」