3月28日(金):シルクロードの日
「今日はシルクロードの日なんだってさ」
朝食の席で新聞を広げながら、勝が声をかけた。ダイニングには家族が顔をそろえ、湯気の立つみそ汁と焼き魚の香ばしい匂いが漂っている。まだ肌寒い3月の終わりだが、日差しは少しずつ春めいてきた。
「シルクロード?」
海斗がトーストをかじりながら首をかしげる。
「何だか冒険の香りがする名前だね!」
勝は新聞を置き、得意げにうなずく。
「昔、中国とヨーロッパを結んだ交易の道のことだ。ラクダのキャラバンが砂漠を越えて行き来してな。まさに大冒険だよ」
「へえ、ラクダかあ…砂漠とか遺跡とか、ワクワクする!」
海斗は瞳を輝かせたまま、愛をちらりと見る。愛はスマホをいじりながら淡々と食事を続けているが、その耳にはちゃんと勝の話が入っているようだ。
「そういえば、世界史の資料集にシルクロードの地図が載ってたな」
愛はスマホを置いて少し思い出すように言った。「中央アジアとか西アジアとか、いろんな文化が交わった場所って先生が言ってた。絨毯とか香辛料とか…なんかロマンあるよね」
「ほんとだよねー!」
海斗が勢いよく相槌を打つ。「僕はラクダに乗って旅してみたいな! 砂漠の夜には星がめっちゃきれいなんだろうなあ」
「旅ねえ。お父さんもいつか行ってみたいな」
翔太が苦笑しながら口を挟む。「でも、最近は新年度の準備で工場が忙しくてな。とても海外には行けそうにないけど」
「まあ、そのうち時間が取れたら家族旅行もいいんじゃない?」
結衣がエプロン姿で笑顔を見せる。「ほら、4月からは愛も大学だし、海斗も6年生でしょ? みんな生活リズムが変わるから、今はまず落ち着くことが大事ね」
愛は少し照れくさそうに、茶碗を片付けはじめる。
「大学…新幹線通学になるから、慣れるまで大変そう。でもシルクロードに比べたら、通学なんてラクなもんかもね」
「そうだよ」
勝は満足そうにうなずいた。「シルクロードを目指す冒険者に比べたら、どんな道だってへっちゃらさ。大事なのは、先にある未知の世界を楽しもうという気持ちだ」
「そうだなあ。未知の世界…」
愛はスマホを握りしめる。「私、大学で新しい友達ができるかな。授業についていけるかも心配だし、正直ちょっと不安なんだよね」
すると、翔太が軽く肩を叩きながら言う。
「最初は誰だって不安さ。俺も新年度は工場の新入社員が入ってきてバタバタする。だけど、最初の一歩を踏み出すと案外大丈夫なもんだよ」
「お母さんも、カフェのメニューをちょっと変えてみようかなって思ってるの。春らしいデザートとか、新しいお客さんを迎える準備とか」
結衣がウインクをしながら続けた。「いくつになっても、未知の世界は待ってるのよ」
「おばあちゃんは?」
海斗が首をかしげると、澄江はにこやかに微笑む。
「私は刺繍の新作を始めるわ。春の花をモチーフにしてみようかと思ってね。家族の新しい門出を、ちょっとだけ華やかにするつもりよ」
家族それぞれが、新しい出発に向けて少しずつ前を向いている。そんな空気がリビングを包んでいた。海斗はすかさず立ち上がり、勝に声をかける。
「ねえ、おじいちゃん、僕にシルクロードの冒険譚を聞かせてよ! 今日はシルクロードの日だし、夜に物語を作ってよ!」
勝は嬉しそうに目を細める。
「いいぞ。ラクダのキャラバンが砂嵐に巻き込まれるとこなんか、海斗が好きそうだな。今夜、しっかり考えておくよ」
「やったー!」
海斗は小さくガッツポーズを作り、愛のほうを振り返る。「お姉ちゃんも一緒に聞こうよ、ちょっとした息抜きにさ!」
愛は「ま、気が向いたらね」とそっけない言い方をするが、その表情はどこか楽しげに見えた。
夕方、家族がそれぞれの用事を終えて戻ってきたころ、外は少し曇り空になっていた。台所では結衣が夕飯の支度をしながら、「今日はシルクロードっぽいメニューにしようかと思ってクミンとかスパイスを用意してみたけど、どうかしら」と小さくつぶやいている。その横で澄江が笑顔で「楽しみねえ。香りで旅気分になれるかも」と答える。そのやりとりに翔太も「いいね、俺も旅した気分になれる」と盛り上がる。
やがて夜になり、いつものようにリビングに家族が集まる。勝は腕を組み、まるで語り部のように声を低くして話し始めた。
「むかしむかし、遠い砂漠の道を、たった二頭のラクダと共に歩く少年がいたそうな…」
海斗は毛布を膝にかけながら、「それで、それで?」と身を乗り出す。愛も部屋から降りてきて、少し離れたところでスケッチブックを開きながら耳を傾けている。翔太と結衣、そして澄江はお茶をすすりながら穏やかな表情だ。
「怖い砂嵐に遭遇したとき、少年は不安になった。でも、前を向けばきっと新しい世界が見えてくる。そう信じて一歩一歩進んだんだよ…」
勝の物語に、家族の心がふんわりと温かく包まれていく。恋や将来や勉強の不安も、まるでシルクロードの先に広がるオアシスのように、少しだけ明るい光が差し込むようだ。
「なんか大丈夫な気がしてきたな」
愛がぼそりと呟くと、海斗が「でしょ?」とニヤリとする。
夜は更け、家族はそれぞれの部屋へ向かう支度を始める。玄関先からは風の音が聞こえるが、家の中は穏やかさに満ちていた。最後に台所の電気を消しながら、結衣が小さくつぶやく。
「明日もまた、新しい道がきっとあるね」