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3月27日(木):さくらの日

「お姉ちゃん、もうすぐ大学生だね。」

朝、リビングでランドセルを下ろした海斗が、ソファに座る愛へ話しかけた。

「うん、あとちょっと。なんだか準備でバタバタしてるよ。」

愛はスマホをいじりながら答える。机の上には数日前に届いた大学の入学案内や教科書リストが広げられ、慌ただしい雰囲気が漂っていた。


「今日はさくらの日らしいよ。どこか桜を見に行きたいなあ。」

海斗がソファから伸び上がるように背を反らす。

「そうねえ。花見に行きたいけど、まだ大学の書類とか用意しなくちゃいけないし……うーん、時間あるかなあ。」

愛は少し迷った顔をしながら、手元の書類をぱらぱらとめくった。


キッチンからは母の結衣が「二人とも、朝ごはんはちゃんと食べなさいよ!」と声をかけてくる。温かいみそ汁と野菜のたっぷり入ったオムレツがテーブルに並び、いい匂いがリビングに広がっていた。

「いただきます!」海斗が元気よく席に着くと、祖父の勝がやってきて微笑む。

「桜か。今朝、庭の木を見たらずいぶんつぼみが膨らんでいたよ。花見に行くのもいいが、家の庭の桜も負けてないぞ。」

「そうなんだ!」海斗が目を輝かせる。「じゃあ僕、後で庭を見てこよう!」


その会話を聞いていた愛は、少し考えたあと、テーブルの端に腰を下ろしてにこりと笑う。

「ねえ、せっかくだし、昼間に近所の公園でも行ってみようか。あそこの桜、毎年すごくきれいじゃん。」

「いいじゃないか。愛も息抜きが必要だろう?」勝が嬉しそうに頷くと、海斗は「やったー!」と歓声を上げた。


そこへ翔太が玄関から戻ってきた。

「何の話?」

「公園でお花見だって!今日さくらの日だし、行こうよ!」

「お、いいじゃん。俺も定時で上がれそうなら合流するよ。」翔太は嬉しそうにジャケットを脱いでリビングに入る。


「じゃあお弁当、私に任せて。」結衣がテーブルを片付けながら楽しそうな声を上げる。「買ってきたミニトマトもあるし、ちょっとしたおかずを詰めて持っていきましょうか。」

「わあ、じゃあ甘い玉子焼きも入れてほしい!」海斗が目をキラキラさせると、結衣は「はいはい」と笑顔で応じた。


午前中、愛は自室で大学の書類を整理していた。合格通知から始まり、口座の手続き、教科書のリスト、学生証用の写真撮影のスケジュールなど、ひととおり確認しなくてはいけないことが山積みだ。

「はあ……、なんだか一気に大人になっていく気がする。」

ふとこぼれた呟きに、自分でハッとする。楽しみだったはずの大学生活。しかし同時に、不安も膨らんできていた。ちゃんと通えるのか、新幹線での通学は大変じゃないか、友達はできるのか――そんな思いが頭をぐるぐる回る。


「愛、そろそろお昼準備ができるよ。」結衣が部屋のドアをノックする。

「はーい、もう行く。」愛は書類をバッグにまとめ、立ち上がった。


リビングに戻ると、大きなお弁当箱がテーブルの上にちょこんと並んでいる。玉子焼き、唐揚げ、ウインナー、そして彩りよく詰められた野菜たち。海斗が待ちきれない様子で「早く行こうよ!」と催促してくる。


「じゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんはどうする?」愛がちらりと和室を覗くと、勝は「ちょっと庭の盆栽を仕上げたいから今回は遠慮しようかな」と穏やかに微笑む。

「私も、家で縫い物があるの。桜は帰ってきてから庭のを愛でるわ。」澄江もゆっくりと刺繍を進めながら言った。


結衣が車を運転し、愛と海斗を乗せて近所の公園へ向かう。車窓からは淡いピンク色の桜並木が見え、愛は「あ、もうこんなに咲いてるんだ」と驚いた表情を浮かべる。

「今年は少し早いみたいね。でも、満開まではもう少しかな?」結衣がハンドルを握りながら答える。

「そうだね。満開になったら、もっとすごい景色になりそう。」愛は前方を見つめながらつぶやいた。


公園に到着すると、まだ平日の昼下がりで人はまばらだった。遠くでベンチに座ってのんびり本を読んでいる人や、桜の下を散策するカップルがちらほらいる程度。

「ここ、穴場だよね。」海斗が弾んだ声で歩き出すと、愛も続く。「ほんと、きれい……。」


結衣がレジャーシートを広げ、お弁当を並べ始めた。何本かの桜の枝は、すでに花びらを落としかけていて、風が吹くとひらひら舞う。愛はその様子を眺めながら「今年の桜を見ると、なんか自分も新しい場所に行くんだって実感するな」とぽつりと言った。


「寂しい?」結衣がふと尋ねる。

「うん、ちょっと。でも、それよりも頑張らなきゃっていう気持ちのほうが強いかも。」


海斗が唐揚げを口にほおばりながら言う。「お姉ちゃん、大学行っても僕のこと忘れないでね!」

「なんでそうなるのよ。大丈夫、忘れないから。」愛は笑いながら唐揚げを一切れつまむ。


その時、スマホが振動し、愛が確認すると翔太からのメッセージだった。

「『今から少しだけ抜け出せそう。公園に行くから場所教えて』だって」

「えっ、お父さんも来るの?」海斗が驚く。

「うん、どうやら早めに仕事を切り上げてくれるみたい。やったね。」


少しして、翔太が車で到着。背広を脱いでネクタイを緩めながら、レジャーシートへ合流する。

「いやあ、やっぱり桜はいいなあ。愛、お前ももうすぐ学生か。こういう季節を満喫できるのも今のうちだぞ。」


「そうだね。なんか春って感じがするもん。大学でも、新しい桜がきっと咲いてるよね。」愛は桜を見上げながら微笑んだ。


昼下がりの穏やかな公園で、家族はお弁当を囲みながらそれぞれの近況を話す。愛は大学への期待と不安を、結衣はカフェの新メニュー構想を、海斗は次年度のクラス替えの不安を語った。翔太は時々アドバイスをしながら、みんなの話を楽しそうに聞いている。


「春ってさ、いろんなものが動き出す時期だよね。桜も咲くし、新学期も始まるし……」愛はゆっくりと息を吐きながら、遠くの桜を見つめる。「でも、こうやって家族が一緒にいられると、ほっとするんだよ。」


隣で海斗が、「そうだね、家族って最高!」と満面の笑顔で叫ぶ。結衣と翔太は笑いながら「大げさだなあ」と言うが、愛は満更でもなさそうだった。


桜の枝からふわりと一枚の花びらが舞い降り、愛の肩にそっと止まる。

「わあ、花びらついた!」海斗がはしゃぐと、愛はその花びらを手に取り、じっと眺めた。


「何だか、桜に背中を押されたみたいな気がする。」愛はそのまま花びらを優しく手のひらに乗せて笑った。「大丈夫、きっと大丈夫だよね。」


家族全員がその言葉に頷く。春の風と桜の香りが、彼らの心を柔らかく包み込む中、「さくらの日」は、希望に満ちた一日として、ゆっくりと過ぎていった。


「桜が導いてくれる春は、なんだかんだで優しいね。」

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