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3月26日(水):カチューシャの唄の日

「ねえ、お母さん、“カチューシャの唄の日”って知ってる?」

春休みに入ったばかりの海斗が、スマホを片手にリビングに入ってきた。3月26日、水曜日。まだ肌寒さが残る朝だが、日差しは少しずつ暖かくなってきている。


「カチューシャの唄の日? ああ、昔、トルストイの『復活』って劇の中で歌われた曲が大流行したとか、そんな話を聞いたことがあるわね。」

結衣はキッチンで野菜を刻みながら答える。今日はあっさりしたメニューにしようと、サラダとスープの準備をしている。


「そうそう。1914年に初演された舞台で歌われた曲らしくて、それが“カチューシャの唄”っていうんだってさ。」

海斗はスマホの画面を見せながら、得意げに情報を披露する。


すると、和室から勝がお茶をすすりながら顔を出した。「おや、懐かしい話題だな。もっとも、わしが若かった頃でもすでに昔の話だったが、『カチューシャの唄』は当時を象徴する名曲だったと聞いてるよ。」


「へえ、おじいちゃんでもリアルタイムじゃないのか。」海斗が不思議そうな顔をすると、勝は「当たり前だろう」と笑った。


そのとき階段を下りてきた愛が、新聞を手に軽くあくびをしながら話に加わる。「“カチューシャの唄”って名前だけは聞いたことある。確か“カチューシャかわいや…”みたいなフレーズだよね。あれ、学校の音楽資料で見たことあるかも。」


「そうそう、それよ。それが大流行してから、女性が髪につける“カチューシャ”って呼び名も広まったんだってね。」勝が思い出を探るように言葉を続けると、結衣が「ああ、ヘアバンドみたいなやつね。なるほどねえ」と感心したように頷く。


そんなわいわいした朝のリビングには、姉と弟、そして両親と祖父母がそろい、春らしい穏やかな空気が流れている。愛は4月から始まる大学生活のことで少し緊張しているらしく、朝食の席でも何度か深いため息をついていた。


「愛ちゃん、悩みがあるなら言うてみなさい。みんなで考えれば、ちょっとは気が楽になるだろう。」勝が新聞を畳みながら声をかける。


「うーん、実は今日、大学の同じ学科の子たちとオンラインで顔合わせする予定があって……。初対面だし、変に思われたらどうしようとか、緊張してて。」愛は恥ずかしそうに目を伏せる。


「顔合わせねえ。最近はオンラインで事前に知り合えるんだな。便利な時代だ。」翔太が新聞を受け取りながらしみじみと呟く。「でも、余計に緊張するかもな。顔が直接見えないだけに、何を話そうって考えちゃうのかも。」


「そうそう、だからなんだか落ち着かないのよ。『カチューシャの唄』みたいに、何か気の利いた話でもできればいいんだけどね。」愛は苦笑いしながら、テーブルに置いたスマホを一瞥する。


「気の利いた話より、愛らしく“かわいや”な感じでいればいいんじゃない? ほら、『カチューシャかわいや…』って歌詞、優しくてあったかいイメージあるでしょ?」海斗がちゃかすように言うと、愛は「もう、海斗は子どもっぽいことばかり言って!」と少しムッとした顔をする。


「でも、優しくてあったかいイメージ……それって大事かも。新しい友達にいきなり変に背伸びしなくても、素直に思ってること伝えればいいよね。」愛は小さくうなずいて、スマホを手に取った。


昼前、家族がそれぞれの用事に取りかかる中、愛は自分の部屋にこもり、オンライン顔合わせの準備をしている。パソコンに映る自分の顔が気になって何度もカメラの角度を直したり、音声テストをしたり、気づけばあっという間に時間が過ぎていく。


「…よし、もういいや!」愛は腹をくくるように深呼吸し、カメラ越しに画面を見つめる。ちょうどそのとき、画面には同じ春から大学に入るという子たちが順番にログインしてきた。最初はぎこちない挨拶だったが、「よろしくお願いします」「デザインの勉強が楽しみです」など、少しずつ打ち解ける言葉が交わされる。


愛は内心ドキドキしながらも、「私もデザイン学部で、イラストが好きなんです。今度みんなで作品見せ合いっこできたら面白そうですね」と言ってみた。すると、相手も「うわ、めっちゃ楽しそう! 私も絵描くの好きなんだ!」と笑顔で答えてくれる。


オンライン越しに画面が賑やかになっていく中、愛は「大丈夫かも」って手応えを感じ始めていた。


夕方になり、リビングに戻ってきた愛はすっかりほっとした表情だ。「みんな優しかったし、意外と盛り上がったよ。『大学始まる前に会おう』って話にもなったし、緊張してたのが嘘みたい。」


「そりゃよかった。じゃあ『カチューシャかわいや…』って歌うまでもなかったかな?」海斗がからかうように手拍子をすると、愛は照れ笑いを浮かべる。「もう、その話はやめてよ!」


夜、家族が食卓を囲むころ、結衣が明日の買い物リストを見ながら言った。「明日はさくらの日だっけ? 日に日に桜も咲いてきたし、どこかで花見もしたいわね。」


「そうだね。愛がちょっと落ち着いたら、みんなで桜を見に行こう。」翔太が頷く。「今年は新しいステージに立つっていう意味でも、ちゃんと春を感じたいしな。」


「いいな、それ。僕も行きたい!」海斗が大きな声で賛成すると、勝と澄江も「この家族でお花見、楽しみじゃ」と微笑み合う。


そんな穏やかな山本家の夜。愛は今日の顔合わせがうまくいった安心感を胸に、箸を進めている。カチューシャの唄が生まれた昔も、きっと誰かが緊張と期待で胸を弾ませていたに違いない。


「私も、ちょっとだけ『カチューシャかわいや…』な気分だよ。」愛は茶化すように小さく呟き、家族が一斉に「どういう意味?」と笑い合った。


外はまだ肌寒いけれど、確実に春が近づいている。新しい出会いと新しいステージへの期待と不安が、家族の会話に温かな彩りを加えていた。


最後に澄江が、ほっと安心するような声で言う。

「大丈夫。新しい友達もできたし、家族もこうしてそばにいる。あなたなら、きっと素敵な春を迎えられるわよ。」

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