26-5.わたし達の心
どこか寂しそうな様子の蛍の方を見て、在原中将は何か相応しい言葉をかけるべきだと思ったけれども、過去の経験にそれを助けるようなものがなかった。
相手から好かれようが、好かれまいが、自分には差し障りないのだ。
偽りと裏切りの上にできた人生に、まじめに向き合う必要などありはしない。
何よりも変わりやすい人の心のために、遠い未来を考えることに意味はない、と言い聞かせて生きてきた。
そうでなければ、心が潰れてしまいそうで、在原中将にとっての弱みに根ざした生き方そのものだった。
「的を射た部分もありますね」 と在原中将は云った。
「しかし、事実はもっと単純なのですよ。誰かを好きになれない人が、変わらなければなりません。彼はじぶんも愛せないまま、心の重みに耐えかねて、いつか破滅するしかないのですから」
「それを言えば、わたしも同じなのです」 と蛍の方は答えた。
「わたしは不幸なじぶんをごまかすために、過去の思い出にすがり続けました。あり得たかも知れない恋を実現しさえすれば、じぶんは幸せになれるのだと信じて、心はどんどん現世を離れて行きました。そして、実際に業平さまと再会したとき、とても嬉しかった。けれども、これが幸福なのかは分からなかったのです。相手を幸せにしたいと願っても、わたしにはその幸せが何なのかを知りませんでした」
「なんだか寂しい二人ですね」 と在原中将は云った。
蛍の方は応じた。
「けれども、ちっとも深刻ではありません。ひどく未熟な心から生まれた感傷的な寂しさです」
やや沈黙があってから、在原中将は続けた。
「あまり自分を気にしすぎるのは、良くありませんね。友人たちを見ていると、だんだん分かってきます――幸福を抱かせるものは、周囲の出来事や、人との交流のなかにあるのだと」
「きっとすでにたくさんの幸せあったのに、わたし達はそれをあえて無視してきたのでしょうね。自分のことに夢中になりすぎて、ひどく傲慢になっていたのだと思います」
蛍の方は、そう言いながら、井筒の姫君を思った。
在原中将は、息をついて、袖の中に手を入れると、遠くの方を見つめながら、話し始めた。
「けれども、わたしは不幸にも感謝しているのですよ」
視線の先では、桜の枝先が風に揺れて、鮮やかな頬の色みたいな花が季節を祝福していた。
「もし全てに満足しきっていたなら、蛍の姫君、貴女に会いたいと思うこともなかったでしょう。心から愛しています。復讐と感傷から始まった関係であったとしても、今のわたしは貴女が好きです。また、戻ってきて、一緒に生活して欲しいと思います。いけませんか?」
蛍の方は、表情を輝かせてから、笑いを堪えるように言葉を聴いていた。
在原中将は、少し拗ねた様子を見せて訊ねた。
「ありきたり過ぎましたか?」
「ええ、とっても」 と蛍の方は答えた。
「けれども、今までいちばん素敵なお言葉でした」
在原中将は、満足して頷くと、手にしていたものを相手に見せた。
「瑠璃硝子の髪飾りなのですが、お渡しする機会を何度も失ってきました。しかし、この場よりも相応しいときはありませんでしたね。また、不幸に感謝しましょう」
そういって、蛍の方の髪に触れると、優しく奥まで挿し入れた。
「ずいぶんと手慣れていらっしゃること」
蛍の方は、恥ずかしさを悟られまいと、回らない舌で皮肉を言った。
「当然です。頭の中では、何度も練習をしてきましたから」
在原中将は、立ち上がると、背伸びをして言った。
「一度、貴女のお家のほうに戻りましょうか? わたしは母親にも挨拶して行きます」
蛍の方は、提案を受け入れてから続けた。
「もう少しすれば、わたし達の苦痛は治まるはずです。折に触れて、また悩むこともあるでしょうけれど、それならせめて業平さまの近くにいたい、そう願います」
話しながら、蛍の方はこう言っているように見えた。
――変わって行くわたしを見守っていてください。わたしも貴方をいつでも見ています。
在原中将はそう思うと、熱い感情にじぶんの心が打ち震え、彼だけの幸せを感じた。
胡蝶が魅入られた花に向かって舞い降りるように、在原中将は身をかがめると、相手に甘くささやきかけた。
瞳子のなかに宿る想いが通じ合った気がして、在原中将は少しずつ蛍の方に近づいた。
そのとき、小さく冷たい手が、頬に触れるのを感じた。
春の風にさらされ、緊張にしたその手は、在原中将の体温を確かめるように置かれた。
口唇にしめやかで、柔らかな感傷と、生っぽい香りが伝わると、在原中将は相手を抱き寄せて、視界を閉ざした。
ややあって、少し離れた顔同士が見つめ合うと、蛍の方は言った。
「ごめんなさい、再会したときは、わたしからすると決めていたんです」
在原中将は、諦めに近い感情でこれを許した。




