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26-3.過去は今のままで

 理想のために現実を(かえ)()ず、破滅(はめつ)へと(いた)る人間の姿は、史書(ししょ)ではよく目にする。


 我こそは高潔だと思う儒者(じゅしゃ)は、こうした態度を称揚(しょうよう)し、あるべき聖人(せいじん)の生き方と論じるけれども、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は祖父の平城帝(へいぜいてい)をそう考えたことは一度もなかった。


 ――知なき勇は、蛮勇(ばんゆう)である、と源左大臣(みなもとのさだいじん)は、しばしば口にする。


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、平城帝(へいぜいてい)の決断には愛すべき(おろ)かさがあると思っていた。


 野心と愛欲に()()かれながらも、耳触りの良い大義(たいぎ)を振りかざして、本心をごまかし続けたはず姿は、素直な人間らしい魅力(みりょく)があった。


 いかにも白楽天(はくらくてん)の詩文の中に登場しそうな人物の性格ではないか。


 玄宗皇帝(げんそうこうてい)楊貴妃(ようきひ)の国を傾けた恋愛を詠んだ『長恨歌(ちょうごんか)』は、(みだら)らな詩風であるとして儒者(じゅしゃ)から批難されたが、白楽天(はくらくてん)の最も愛唱された作品だった。


 何より(みにく)く邪悪な人間の姿は、知性によって他者を押しのけ、生きようとすることである。


 そんな人間は、どんな物語にも登場しなければ、世間からも攻撃されれることなく、(しろ)()で見られ、無視されるだけだ。


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、父親の阿保親王(あぼしんのう)を見て、そう確信した。


 阿保親王(あぼしんのう)は、安っぽい地位を(まも)るために、紀氏(きのし)橘氏(たちばなし)の友人を売り渡し、藤原摂家(ふじわらせっけ)にへつらうことを選んだ。


 若くして不遇の道を歩まされた阿保親王(あぼしんのう)は、心まですっかり負け犬になってしまったのだろうか。


 いつも容色(かおいろ)が悪く、神経質そうな父親の姿には、本能的な不快感(ふかいかん)があった。


 ある時点ではっとしたこと、胸を打たれ、期待と恐怖に(ふる)えただろうことは、手にしてしまうと見飽きて色褪(いろあ)せた、つまらないものになった。


 阿保親王(あぼしんのう)は、小さな成果(せいか)をいつまでもじっと見つめて、想像よりも(はる)かに価値のないものだと気が付きながらも、自らに大切さを言い聞かせ、それを手にすることで悪評(あくひょう)を受けはしないかと、つねに(おび)えていた。


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)が物心がついたときには、いつの間にか父親とは距離を置くようになっていた。


 理由はよく分からないが、人としての感情がそうさせた。


 じぶんの心には、目しか付いていない、と感じることが、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)にはあった。


 人を好きになったり、大切に思ったりする感情が欠けていて、相手を抱き寄せるための(むね)(うで)がないのだ。


 表情や目つきに、何か言い表しがたい(うれ)しそうなものが(あらわ)れている人物を見るたびに、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は少し嫉妬(しっと)に近い(うら)みの感情を持った。


 心の歓喜(かんき)が体中に満ち渡って、(はだ)眼差(まなざ)しを輝かせている様を見ると、自分とは全く別の世界に生きている人間なのだと感じた。


 それでも、(あわ)れな父親を見るよりずっとましだ。


 生まれたときから、罪の上に作られた(とみ)身分(みぶん)をむさぼりながら、それでいて十分に(むく)われることもない、(みじ)めな生き方を運命づけられている自分とは、違う人間ばかりなのだと思った。


 「貴方(あなた)はいつまで子どものつもりでいるのかしら」


 西京(にしのきょう)女君(おんなぎみ)は、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)を呼び出した際に言った。


 「反抗(はんこう)自惚(うぬぼ)れは、子どもの特権なのですよ。わたし達が知り合ってから、どれだけの年月が過ぎたでしょう。それなのに、貴方(あなた)容貌(ようぼう)も、仕草(しぐさ)も、言葉遣いも、何一つ変わらないままでいます――自分よりも可哀想(かわいそう)で、お洒落(しゃれ)な人物なんていない、って言いたげな表情のままで」


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)(こた)えた。


 「それは悪いことばかりではありません。富も権力もなければ、わたしに残されているのは美貌(びぼう)だけですから」


 「遠慮(えんりょ)がないのね」


 「ええ、それにこのままの方が、貴女(あなた)にとっても都合が良いのではありませんか?」


 機嫌を(そこ)ねると、つい当てつけめいた物言いをしてしまう在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)だった。


 西京(にしのきょう)女君(おんなぎみ)は答えた。


 「否定はしません。過去の傷を()()うのは、ひどく(みじ)めであるとともに、妙な心地良さがありますもの」


 実際のところ、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)にとっての過去は、いまだに過去ではなかった。


 今でもすぐ(そば)にあって、甘い狂気(きょうき)を引き起こすのを考えるとき、じぶんの生き方を変えることは無理だと思った。


 繊細(せんさい)で、(やさ)しい、それでいて危険な遊びに人生を(ついや)そうと決心した友人たちに囲まれて、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)はある程度の満足を得た。


 何もかもにも飽きるほどに感情を消費(しょうひ)し、答えのない欲望を夢見て、変化や見知らぬ派手(はで)なものに対する欲求だけを胸に彼は生きた。


 ただ時間が過ぎるだけで、相応(そうおう)の年齢を重ねることを忘れた。


 それは結局、漠然(ばくぜん)とした愛情を探し求めるような、気の毒な精神の(はたら)きだったのかも知れない。


 意味のない焦燥感(しょうそうかん)に取り憑かれ、何度も在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、自尊心(じそんしん)の高さと感じやすさゆえに、人知れず傷付き、()じらいを覚えながら、ほんのしばらくの間でも、自分の心を熱中させてくれるような誰かに出会えないかと思った。


 感情に(おぼ)れてしまえば、その期間、心は陶酔(とうすい)し、どんな痛みも感じない、不思議な魅力(みりょく)(いろど)られるに違いない。


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、出会いを願うだけでなく、(かた)(ぱし)から人間関係に(さぐ)りを入れてみた。


 (ほたる)(かた)との再会は、どこにも長居(ながい)はしないような、例の投げやりな活動の中で達成(たっせい)されたものだった。

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