26-2.捉えがたい本心
在原中将の表情は、刻々と変化しつつあった。
再会の喜びにきらめいたかと思えば、不安に曇り、面と向かった彼が真っ蒼になったところで、蛍の方が手を取ると、その目に感謝の光が灯った。
在原中将は、高鳴る感情に胸を締め付けられたまま、話しもできず、ただ差し出された手を握りしめていた。
蛍の方は言った。
「なんてご親切に!」
「そうでもありません。貴女との関係のためなら、労力は惜しみませんし、気にかかります」
蛍の方は、真正面からじっと相手を見つめたが、
こうした女性の最初の一瞥というものは、全てを抜き打ちで見通してしまって、本心や願望などのあらゆる隠し事を暴き立ててしまうものだ。
そう理解していた在原中将は、気が気でなかったけれども、蛍の方がにっこり表情を和らげたことで、なんとかお眼鏡にかなったのだと思った。
蛍の方は言った。
「素敵ですね、業平さまの隠れ家は。こんな気持ちの良い日に、ここにいれば幸せでしょう」
「いいえ、そんなことはありません」
「まさか、こんなに素晴らしく花は咲いて、桂川は可愛らしいのに、満足なさらないなんて」
蛍の方は、相手の隣に腰かけた。
「ここで一人きりで幸せを感じるためには、」 と在原中将は続けた。
「どうしても何かを忘れなければならなかった。それは貴女が誰よりもよくご存知なはずです」
蛍の方は、少し黙ってから云った。
「それはわたしも同じです。申し訳ありません」
在原中将は、憐憫の情を抱きつつも、あからさまに自惚れが満たされた様子で言った。
「けれども、わたしほど惨めではなかったでしょう」
「どうなのでしょうか」 と蛍の方は応じた。
二人は少し肌寒さを感じる木陰の中で、外の景色を眺めた。
在原中将は、視界の隅で蛍の方を追った。
蛍の方が身にまとっていた雰囲気が、一瞬にして木々の緑と花の色とに完璧に調和してしまったので、彼の目には、この女性の姿が幻のように現れたときと同じくらい驚くべきものに見え、思いがけない新鮮な形でその魅力と可愛らしさが迫ってくる気がした。
柳のようにしなやかな身体つき、繊細で愛嬌たっぷりな容貌、活発さを感じさせる翠のつや髪、柔らかそうな腕で描く仕草――
それらは、まさに田園の風景に似つかわしく、一つの情景でこそ魅力を十分に感じさせた。
物語の世界でよくある、突然にやって来た女主人公みたく、自分がどれほど美しいかを知らないままに、周囲からの興味を意図せず惹きつけてしまうような姿だ。
在原中将は、返り咲いた情熱を心で確かめると、つい大切なことを訊ねる機会を先送りしてしまった。
「家で出迎えをしてくださった姫君は、どのような方なのでしょうか?」
「井筒の姫君ですか?」 一度、間があって蛍の方は答えた。
「長岡の友人の一人ですよ」
「友人ですか、」 と在原中将は、やや含みを持ちつつ続けた。
「そうですね、実際、とても良い子に見えました。なんだか放っては置けないような、他人事とは思えない感じがして」
「わたしが居なくなってからも、ずっと待ち続けてくれていたみたいです」
蛍の方は、赤くなりながら言った。
「素敵なことです」
在原中将は、それ以上、井筒の姫君について話すことはなかった。
お互いに本心を語り合うためには、決定的な何かが足りないような感じがした。
在原中将は、一度は彼女への想いを諦めようと決意したこと、逃げるように社交を繰り返しても浮かぶのは彼女の於母影ばかりだったこと、昼間は思い出に追いかけられ、夜は夢に責められることを話したかった。
口上手な男性お得意の恥じらいも矜持もかなぐり捨てた正直な物言いで、相手の情熱を高めたかった。
すでに自分でいることの喜びと嫌悪感は、味わい尽くしてきたけれど、それらを除くと、今まで在原中将を恋へ駆り立ててきたものといえば、一種の好奇心と、果てしない退屈さだった。
鏡の中の相手の容貌や仕草を調べるうちに、自然と内面にも目がつくようになって、なぜじぶんは曖昧で、軽薄なものにしか興味を持てず、夢中になれないのか、疑問に思った。
他の人びとを感動させる景色や、甘いささやきも、せいぜい気晴らし程度にしか感じられなくて、
誰か心にかけるべき人を見つけるたびに、気持ちを割り切って、決してお互いの心には触れないようにして、恋という形式だけを楽しんできた。
巧みな言葉選びや、手汗を握る駆引き、世間からの悪評を受けるたびに、なんとなく生きているのだと感じた。
本心を騙しながら、世の中からのある種の期待には答え、あるいは裏切ることが、在原中将が選んだ復讐だった。




