26-1.桜の咲く日に
三日後、和琴の方から手紙が来た。
若々しさの中に、成熟を感じさせつつあるような筆跡で、蛍の方の身上をいたわる書き出しの後に、都の近況を伝えた。
――宮中は基経卿の人事をめぐって複雑な情勢となっている、もうしばらくは長岡の地にいた方が、面倒事に巻き込まれなくて済むだろう、といった内容だった。
蛍の方は、素直に助言に従った。
急ぐことなど何もない。
苦労しているはずの三芳野の姫君をよく支えて欲しい、とだけ要望して手紙を返した。
また手紙が来るとしたら、受け取るのは数日後だろうと考えた。
毎日をのんびり過ごそうと決めた蛍の方は、長岡の南西にも散歩した。
恵解山古墳は、飛鳥よりも以前にこの地を支配した豪族の墓である。
かつての郡司の一家――すなわち、井筒の姫君の祖先に当たるのではないかと訊ねたが、今となってはよく分からない。
西一坊大路のすぐ側、小川を越えた先に見えてくる。
この周辺では最大の古墳で、近づくと全貌を窺い知れないほどである。
人びとからは、それなりの敬意を集めていて、草木が伸びっぱなしになったり、盗掘されたりすることはなかった。
人や動物や船などを模した埴輪が並べられており、壊れたものが少なからずあるけれども、それら眺めつつ一周した。
蛍の方が家に着いたのは、陽がほんの傾きつつあるくらいだった。
最近はずいぶんと昼が長くなったと感じる。
背伸びをしつつ家に入ると、井筒の姫君が来て、お話したいと仰る男性がいらした、と告げた。
「蛍の方が外出しておられることを伝えると、桂川の方に向かって歩いて行かれました。ひどく困り果てた様子で、引き止めたのですが、しばらくしたらまた来る、とのことでした」
三芳野の姫君のことが頭をよぎった。
不慣れな宮仕えの中で、何か問題が起きたのかも知れない。
「友人の危機かも知れません。後を追います」
それだけ言い残すと、水を勢いよく飲んで、蛍の方は再び歩き始めた。
足は疲れていても、気持ちが前に行くように働いた。
森を抜けて、桂川沿いに出ると、蛍の方の目は驚かされた。
桜並木は、花を咲かせ始め、薄紅色の天幕が辺りを覆っていた。
ここ数日の暖かな日和によって、一気に開花が進んだらしい。
あまりに美しく、清らかで、そして少し不気味な景色に、一瞬息を詰まらせてから、足を引きずりながら、動悸のする胸を抱えて、花の下に入って行った。
漁師はいつもと変わらない姿勢で投網をしていた。
世界がどうあろうと、彼は死ぬまで同じ生活を繰り返すに違いない。
蛍の方は、そのようなつよい生き方に、果てしない尊敬の念を抱いた。
視線が合うと、彼はしわがれた声で呼びかけた。
「あんたを待ってる人がいたよ。あんたもその人を待ってるんだろう?」
――そうなのだろうか、と思いつつ、返事をした。
漁師の言葉に従って、蛍の方は桂川をひたすら南へ進んだ。
水面では、鮮やかな色を照り返して、飛沫を輝かせ、細長い足の水鳥が、魚や虫を突付いていた。
巨椋池の西端がだんだんと近づいてきた。
ずいぶん先まで行くものだ、と思った。
もしかしたら行き違いになったのかも知れない、と思いつつも、向こう岸へ渡る木橋の辺りまでは歩こうと決めた。
到着してややすると、穏やかな風が吹いて、並木を揺らした。
あでやかな色合いの枝先が、こちらへ手招きするように目に映った。
視線を誘われて、向こう岸の木陰を見ると、その中に動かない黒い塊らしいものがあった。
風に乗って、香木と男性らしい匂いが混じり合って届いた。
蛍の方が、その姿に近寄って行くと、ほんの僅かに肩先が上下していた。
木の間の岩に腰かけている男性は、眠りこけているらしい。
やや地味な色合いの二藍の襲ねの衣装に、髪はややほつれ気味で、全く意図せず眠りについてしまったために、実に無防備な印象を与える。
長い睫毛は、何かに濡れたみたいに光って、少し危うい、触れたら壊れてしまいそうな色気を作っていた。
蛍の方が声をかけると、目を薄く開いて、やがて彼女の存在に気が付くと、飛び起きた。
「蛍の姫君! どうしてこちらに」
声の調子は、明らかに平静を失くしていた。
それでも、男性は態度を取り繕って、言葉を継いだ。
「最近のご様子を知りたくて参りました。手紙では、どうも言い尽くせませんから」
顔を上げると、陽差しに表情が輝いた。
在原中将は、少しよそよそしい微笑を浮かべ、全身にやや硬いところを見せつつ、片手を差し出した。




