25-5.真実の夜
一行の別れは、誰もが思っていたより、湿っぽくも恨みがましくもならなかった。
朝堂院の敷地を抜けて、二条大路の辺りまで戻ってくると、陸奥の方は云った。
「さあ、次はいつ会えるのでしょうか?」
「ごめんなさい、分からないのです」 と蛍の方は云った。
「けれども、決して遠くないうちに、今度はこちらから会いに行くつもりです」
陸奥の方は、納得した様子で、「必ずね」 と付け加えた。
それから、井筒の姫君のほうへ顔を向けると云った。
「貴女にも、またお会いしたいわ。わたし達の六条河原院の邸宅に遊びに来てちょうだい」
「"わたし達の"ですか?」 と源左大臣は、うんざりした調子でつぶやいた。
「しかし、細かい文句はあとにしましょう。いつでもお会いするを楽しみにしていますよ、美しい姫様方。お別れは名残惜しいですが、これはまた再会の歓びまでのしばしの代価としてお互いに預かって置きましょう」
この挨拶で正式なお別れとするようだ。
陸奥の方は、東に向かって歩き始めた。
源左大臣は、その姿を確かめてから、蛍の方の耳元にささやいた。
「"あの方"に伝言すべきことは、本当にありませんか」
「ええ、何も」 と蛍の方は言った。
「直接会ってお話します」
源左大臣は、小さく頷くと、
「貴女はいっそう素敵になられた」 と言って立ち去った。
二人の使者は、互いに文句を言い合いながら、長岡を少しずつ離れて行った。
蛍の方は、その後ろ姿を見えなくなるまで眺めた。
泣いているのだろうか――
目が潤んでいるように、井筒の姫君には感じられた。
井筒の姫君は、うめき声を上げそうになりながら、帰路に着いた。
蛍の方は、大らかな満足感を得ていて、これからの都での活躍について考えている気がした。
事実を確かめずとも、そうだと分かった。
蛍の方の本心を知るのは怖ろしいことだし、言葉がのどの奥につかえて上手く質問するのは難しいだろう。
井筒の姫君は、今のじぶんには現実に耐えられるだけの余力がない気がした。
彼女の確信は、その日の夜に真実となった。
井筒の姫君は、なるべく普段通りの態度を装いつつ、蛍の方や従者の男性たちと話を合わせた。
絞り出すように、とても魅力的な友人たちだった、と口にした。
二人の使者を褒め称えるほどに、じぶんの立場や性格がどんどん惨めに感じられて、つらくなった。
蛍の方は、いつも以上に愛想が良くて、お酒を二杯は多く飲んだ。
幸せな空間に、じぶんだけ参加できていない気がした井筒の姫君だった。
いつまで経っても眠れそうにない。
心のざわめきが、彼女を苛んで、静かな夜を取り戻すことを許さなかった。
辺りが暗くなっても、風は生暖かい湿り気を含んで、つぼみを刺激した。
間もなく花は開き始め、季節は一巡するだろう。
そのとき、自分はどうなるのだろう。
井筒の姫君は、そう考えざるを得なかった。
不遇な生活の中で、ようやく見つけた小さな翠光が、また遠い空へと飛んで行ってしまうような感覚にとらわれた。
井筒の姫君は、ゆっくり身を起こすと、外を眺めた。
月の明るい夜で、物の陰影がはっきり見える。
蛍の方を知りたい気持ちがどんどん強くなって、遠慮がちに身を動かし始めた。
大胆で、思い上がった、決してしてはならない行為だと頭では理解しつつも、心は彼女を引き止めなかった。
物音を立てないようにゆっくりと、部屋の隅へと向かった。
文机に着くと、その上を手で探った。
例の手紙らしきものは触れられず、筆に当たってしまったことで、小さな音がした。
井筒の姫君は、跳び上がりそうになって、眠っている人に注意を向けたけれども、目を覚ますことはなかった。
よく寝ているらしい。
安らかな寝息が聴こえる中で、井筒の姫君の内心は揺さぶられ、脈拍がどんどん激しくなるのを感じた。
真実を知りたい、しかし、手紙は見つからなくて良かった、と井筒の姫君は思った。
見つかりさえしなければ、諦めがつくし、浅ましい罪科を犯さなくて済むのだ。
井筒の姫君が立ち上がろうとしたとき、足先に床とは違う感触があるのに気が付いた。
息をのんで、手にして見ると、他でもない例の手紙だった。
風に吹かれて、いつの間にか文机から落ちていたらしい。
井筒の姫君は、それを手にして急いで家の表に出た。
じぶんでは制御できない力に押されて動いているのだと思った。
身を震わせながら、一枚の紙を開き、月明かりに透かして見ると、不安定な筆遣いでこう書いてあった。
――貴女がわたしのことをどう思っているのか知りたくてたまりません。わたしは何一つ忘れることができずにいます。どのような過去があっても、今のわたしは誰よりも貴女を愛しているのです。
手紙の最後には、"在原中将業平"とあった。
井筒の姫君は、部屋へと戻りながら、自分のしたことにうろたえ、身悶えし、早くも後悔していた。




