25-4.延暦の朝堂院
長岡は、十年の都だった。
桓武の帝が、仏教勢力の政治への介入を怖れ、また物流の利便についても考慮したことで、三本の川に挟まれた未開の丘陵地が、新たな都として選ばれた。
側近の藤原参議種継に地縁があったのも理由の一つだった。
彼の尽力によって遷都は手早く進められ、造営からわずか半年で、新年を祝う儀式が行われた。
土地は北に行くに従ってなだらかに高くなる。
治天の君が住まう宮城であることを目に見える形で示したのだと言える。
長岡の宮殿は、平城京の副都であった難波宮から移設された。
平城京のものよりやや小規模であったが、大陸風の新しい建築で、改革意識のつよい桓武の帝に好まれたのだろう。
一行は朱雀大路をひたすら上り、視界に迫ってくるかつての朝堂院を目の前にした。
長い年月を風雨にさらされて、鮮やかな朱色の柱木は朽ちかけ、瓦葺の隙間からは蔓草が伸びている。
草むらの中に、建物だけが取り残されたような印象で、辺り一面を見回しても春が間近に迫り、話に聴いていた前代の面影は一気に遠のいた。
太陽に照らされた群青の青空の下、草原に眠る大きな礎石だけが、旧い権威を伝えた。
北西の川の上流近くには、頂点の盛り上がった古墳群、先の折れて尖った古塔の輪郭が屹立していた。
源左大臣は、太刀の柄を抜いて、草を薙ぎながら前へと進み、一行は続いた。
近くに見えるものといえば、広々とした土地全体を眺めても、周辺を囲む城壁らしき姿があるだけで、ほとんどが欠けたり壊れたりして、役もなく立ち尽くしている。
「思っていたより虚しいところね」 と陸奥の方は言った。
「でも、嫌いじゃないわ。妙に落ち着いた、他の場所にはない雰囲気の魅力がある気がする」
源左大臣は、言葉を引き受けた。
「あわれ、"春望"といった感じでしょうか」
「そうかも知れません」
陸奥の方は、相手の言っていることが分からず、生返事をした。
それから、源左大臣は、唐の詩人である杜甫の詩の一節を口ずさんだ。
国破れて 山河在り
城春にして 草木深し
陸奥の方は、ただ「良い歌ね」 と言った。
源左大臣は、続きを唄わなかった。
"家書、万金に抵る"との文言は、蛍の方の心に何か思わせるのではないか、とぼんやり考えていた。
南門の日陰の涼しさを奥へ進むと、太極殿が姿を現した。
遥かに見える草原の緑がかった線上に、いくつかの建物がならんで、その中央の少し高くなったところに太極殿はあった。
延暦年間のみ機能したそれらは、月日の流れに侵されて、すでに建っているのでやっとの様子である。
「近づき過ぎると危険かも知れませんね」 と源左大臣は云った。
「太極殿は自らの重みに耐えかねて、今すぐにでも崩れ落ちそうだ」
一行は遠方から拝するだけで満足した。
建物の中には、人も物も何も遺されておらず、空っぽの立派な箱だけが捨て置かれている感じだった。
こんなにも穏やかで寂しい場所に、早良親王の魂は、今もさまよい続けているのだろうか。
自然と人為のすべてが一つの場所に、偉大さと力強さ、清らかさと美しさ、そして果敢なさと理想を湛えて目の前に差し出された。
一行の心は、世の中の秩序を知り、何か壮大すぎるものに洗われるような感覚を抱いた。
実はここまで眺めたのは、初めての蛍の方だった。
たとえ名所と言われても、人気がなく、背丈の高い草木の生い繁げる宮殿の跡地に入って行くのは、何か起こしてはならないものの眠りを覚ましてしまうような不気味さがあった。
今はじっくりと深い感動に包まれて、しばらく身じろぎもせず、ただ胸をいっぱいにして、些細な思いを忘れた。
ずっと遠くの方から、春を告げる鳥の声に混じって、鐘の音が聴こえてきた。
一行は現実へと急に引き戻され、源左大臣は振り返った。
旧跡には、やはり彼らしかいない。
源左大臣は、過去を置き去りにするように前へ歩き始めると、
「そろそろお別れの時間かも知れません」 と告げた。
陸奥の方は、相手を追いながら言った。
「とっても楽しかったわ。大路に戻ったら、それぞれ帰りましょう」
蛍の方は、寂しそうな微笑で応じた。
その表情から大切なことを理解してしまった井筒の姫君は、動けなくなった。
彼女は実際のところ、景色など見ていなかったのだ。
蛍の方の仕草、表情、声色などを観察し、起こるに違いない決定的な変化の兆しを見逃さないようにしていた。
そして、一瞬を目にしたとき、自分にとっての時間が止まったのだと感じた。
全ての幸福や憧れは、今をもって過去のものとなり、置き去りにされたのである。
「思いの外、気に入りましたか、井筒の姫君?」 と蛍の方は声をかけた。
「また二人で来ましょう。あまり草木が深くなり過ぎる前にしなければ」
それから井筒の姫君に、後に続くように求めた。




