25-1.緑の先触れ
蛍の方は、自分がずいぶん大人になったように感じた。
相変わらず世間を知らないし、引っ込み思案な性格は代えられないけれども、感傷にとらわれたり、思考を失ったりせずに、日々の幸福と寂しさを見つめることができた。
井筒の姫君との生活には、不思議な魅力がある。
けれども、かつての友人たちも懐かしい。
森や桂川沿いを歩きながら、自分は幸せの種類を知り始めたのだ、と思った。
二条邸での記憶が頭をかすめると、高揚感に満たされるのが自分で分かり、お喋りしたさに帰途に着くのだった。
蛍の方は庭先に腰かけ、井筒の姫君が部屋の中で小さくなっているのに、いろいろな都での思い出を語りかけた。
井筒の姫君は、その声を聴き、姿を眺めながら、華やかな夕食会での自分の知らない彼女の活躍に寂しくなり、そうした期間を長岡で一人きりで過ごした事実に思い至った。
泣き出したい気持ちが忌わしくも湧いてきて、まぶたが濡れた。
独り占めしたいという欲望が、ひりひり胸を苛んで、
――今すぐ自分だけに注目してほしい、けれども、何も面白い話題を持ち合わせていない、という悔しさから片時も離れられなくなる。
彼女が暗く憂鬱としているのを見て、蛍の方は尋ねた。
「貴女を苦しめてしまいましたか? 素敵だと思ってお話したんですが……」
井筒の姫君は、鼻を鳴らしながら言葉をさえぎった。
「いえ、そんなことはありません。春ですからね、なんだか目鼻が痒くて涙が流れるのです」
「そう、なら良かった」 と蛍の方は言ったきりだった。
その言葉に疑いを持たないほどには、蛍の方の考えは楽天的なものになっていた。
井筒の姫君は、憧れの女性からの気遣いに深く感動しながらも、一方でどうして理想とは近づくほどに遠ざかるのか、と考えたりした。
優しい声に揺られつつ、でも言葉は耳に入らずに、自分の感情へかけられた呪いに悲観的な思いを抱いた。
井筒の姫君は、再び長く散歩をするようになった。
当て所なくさまよいながら、どこか自分の感情を清らかに払ってくれる場所はないかと、漠然とした望みを持った。
木々はいまや暗い森を作り出し、薄く若い色の緑の葉叢を繁らせた。
大気は湿り気を帯びて、深々とした自然の天井を仰ぎながら、季節の移り変わりを全身で感じた。
これほど麗かな時候に、自分は鬱屈とした思いで小径を辿っているのだ。
開き始めた花々に絡みつく蔓草に、何か身に迫るものを感じて、立ち止まり眺めた。
すらりと伸びた木を締めつける荒々しい自然の力は、なりたくてもなれない憧れにしがみつこうとする誰かの似姿のようで、目と心とを射抜いた。
花を咲かせる木といえば、そんなことは気にしない様子で、しっかり伸びた胴体を、まとわりつく者の頭よりもずっと高く空へと目指し、健やかな成長を見せようとしている。
井筒の姫君は、言い様もなく嫌な感じがして、目の前の光景から立ち去った。
例の植物は、病んだ彼女の心にとっては、怖ろしくも目を覚ますような象徴として映り、自分の恋のあり方を道行く者に語っているように思えた。
それでも気持ちを持ち直すために、地面に目を落としながらもとぼとぼ歩いていると、北のほうから人の話す声が聞こえた。
男性は都からの使い人らしく、蛍の方との話の中でだけ聞き知った人物の名前を口にしている。
井筒の姫君は、気が付くと彼らの後を追っていた。
彼らは何かの報らせを手に長岡の地にやってきたのだろう。
それは蛍の方に届けられるべきものだと確信した。
真実を知らずにはいられなくて、自らの浅ましさに嫌気が差しつつも、ただ好奇心のままに木々の間を抜けて行った。
どこまで行っても姿が見えなくて、声を頼りに気を急かした。
――わたしは何を知ろうとしているんだろう。事実を確かめたとして、どうしようというんだろう。
井筒の姫君は、じぶんの期待する答えなど存在しない予感がした。
今の生活に何よりも満足しているのなら、どんな報らせであっても、彼女を失望させるものとなるだろう。
森の中をひたすら早足で進み、郡司の家のほうに近づきつつあるところで、突然、一人の女性の顔と出会した。
その女性は、思いがけない少しの荒々しさを含む口調で、相手の男性に話しかけた。
「ほら、わたしの言った通りでしょう。変な足音と気配がするって」
相手の男性は答えた。
「貴女の勘のようなものは、実に不気味と言って良いほどだ。しかし、全て予想通りというわけではないらしい。目の前におられるのは、賊でも間諜でもなく、可愛らしい姫君であられる」
井筒の姫君は、男性の姿に驚きを隠せなかった。
容貌、立ち振舞い、仕草、言葉遣い、そして匂い立つほどの高貴な香りが、彼女の心をとらえた。




