3-3.管弦の遊び
夕食会の場は、昼日かと思うほどに明るく、素晴らしい盛況ぶりだった。
少なくとも蛍の方の目には、そんなふうに映った。
日の本の神々が高天原におられた頃――
スサノオノミコトの非道に怒りを覚えたアマテラス大神は、自ら天岩戸のうちに身退って、世界を夜闇に包んだのだという。
そこでアマノウズメは、神々が集まるなかで、自らの胸襟をさらけ出して周囲を笑顔にさせ、引き篭もってしまわれたアマテラス大神を、再び明るく輝かせることにしたのだ。
このアマノウズメとは、まさに今夜のお祭り騒ぎにおける二条の方そのものであり、彼女の行く先々では、真夜中の会合であっても、客人の表情がいっそう明るくなっていった。
それなのに、蛍の方はというと、その輪のなかに入れないでいた。
どこか不安気で、誰に対しても遠慮ばかりしてしまって、じぶんの及ばない教養、足りない育ちの良さ――
それらによって客人を不快にしてしまわないかに脅えきってしまい、あからさまによそよそしいわけではないのに、どうも会話が続かなくなってしまう。
二条の方は、客人たちの饗応に熱心な様子で、ろくに食事や酒を口にすることはなく、胡蝶のようにあちこちを飛びまわっており、
時おり蛍の方に注意を向けるような視線を与えてくれるものの、やはりじぶんだけ全く別の場所にいるかのような気分になるのだった。
高貴な人びとの礼節ある振舞いに、笑顔のほか、どのように応じるべきなのか分からず、すぐに言葉が続かなくなってしまい、叶わぬ恋とは、また異なる苦悩と、どうしようにもなさを味わった。
とはいえ、必要な配慮は十分すぎるほどに受けているとも理解していた。
――そうでなければ、このような身なりのわたしに皆さまが声をかけてくださるはずはない、と蛍の方は思った。
源左大臣と陸奥の方は、あるべき和歌の詠みぶりについて口論していた。
源左大臣が、言葉の持つ印象や音の連なりの美しさを重んじる一方で、
陸奥の方は、人の心情を先として、それをいかに誠実に相手に伝えるべきかを主張した。
源左大臣が、ちょっとからかうぐらいに陸奥の方を挑発したつもりが、
彼女の方はむちゃくちゃに言い返すものだから、お互いに段々とむきになってしまうのが、いつもの光景なのだ。
和琴の方によれば、二人の意見には、どちらにも一理あるのだという。
源左大臣は、唐の歌論書を和歌に応用した高邁な意見であり、
陸奥の方は、『詩経』を編纂する際に孔子が重んじたような詩歌というものの本質を捉えている、らしい。
もちろん、蛍の方には、なんのことだかほとんど分からなかったが、
春日野の妹君は、横から可愛らしい声で言った。
「在原中将の詠みぶりといえば、どちらも損なうことなく備えていると思います」
源左大臣融は、大笑いをして言った。
「姫君、なんとずるいことを仰る! わたしが友人のことを批難できないのを、ご存知の上で言われるのですか。それに、こちらのお嬢さまも、在原中将に恋をしておられる。これはなんと申し開きのしようもございません」
陸奥の方は、顔を真っ赤にして何度も扇子で男のことを叩いた。
これには、蛍の方も少しばかり笑ってしまったのだけれど、
しばらくして源左大臣が彼女のもとに近づいてきてささやいた。
「ようやく自然に笑ってくださいましたね、姫君。あなたさまに、ぜひご紹介した方々がおられるのです」
そういって蛍の方の手をとると、部屋の奥の方へと案内する。
連れられていく間、二条の方はこちらを優しく見守るような視線を向けてきた。
それは源左大臣への信頼に由来していたのだろうか、
夕食会が始まる前の緊張に満ちた一瞥とは全く違う印象があった。
部屋の奥では、春日野の姉君、三芳野の姫君、そして紀雅楽頭有常の三人が、ゆったりと落ち着いた様子で話をしていた。
二人の姿を目にすると、紀雅楽頭が言った。
「こちらの姫君も謡いをなさるのですか?」
彼はあとの演奏会に向けて準備をしていたのだった。
「違いますよ、有常さま」 と春日野の姉君が云った。
「この方は本日いらしたばかりで、挨拶に来て下さったのです」
「全くその通りです。実に失礼いたしました」 と紀雅楽頭はとにかく非礼を詫びた。
彼のしぐさは、全く貴族に似つかわしくないような愛嬌に満ちたもので、
多くの人に憎まれず、ふしぎな尊敬を集める理由だった。
紀氏といえば、古くは五代の帝に仕えた忠臣の武内宿禰に系譜を取り、奈良の朝廷では武官として活躍した名家である。
ずっと偉ぶったような人物でもおかしくはないというのに、紀雅楽頭は腰の低い人柄で知られ、あまり出世や経済のことに興味がないようだ。
娘の和琴の方は、父親を文人として敬愛しながらも、どうやら少なからず不満を持っているらしいけれども。
ところが、演奏会での紀雅楽頭の姿は、先ほどとはうって変わって、
静かで気品ある雰囲気を身にまとっており、まるで別人のように感じられた。
あまりに美しい指使いに、蛍の方もつい魅せられていた。
「あれほど奇妙に魅力的な方は、なかなかいないとお思いになりませんか?」 と春日野の姉君は云った。
三芳野の姫君は、夢中になってぼんやりとした様子でいる。
筝曲、横笛、朗詠、舞踊などにおいて、紀雅楽頭有常の右に出る人物は、唐の国まで探しにいっても、そうそう見つかるものではないと、都でも評判であった。
詩文においては、男性にしてはめずらしく仮名手の方に優れているのだという。
謡い手の恬子内親王の声の調子は素晴らしく、
紀雅楽頭がいることに大いに喜んでいるのが耳で判った。
その兄君である惟喬親王の笙の演奏も、若々しい力にあふれていて、
恬子内親王のやや低めの声と合わさり、控え目な生めかしさを感じさせる調子となっていた。
じつは蛍の方は、今晩はじめて笙の演奏というものを聴いた。
唐の国から奏法とともに流入して、まだ日も浅いというのに、親王の演奏は全くもって完璧なものであると誰にでも分った。
――なんてめずらしく有難い機会を得たんだろう、と蛍の方は思った。
それと一方で、じぶんがすごくみじめなようにも感じられて来るのだった。
――これほどの才覚と身分を持っておられる客人のなかに、どうしてわたしはいるんだろう? これは何かの間違いなのではないか?
演奏会が終わっても、蛍の方の心はこうした疑念にとらわれ、
部屋の隅の方で、賑やかに歓談する人びとの裡に入っていくことができなかった。
――わたしのことを招待して下さったという"あの方"が探しておられるのは、決してわたしなどではないはずだ。
心優しい三芳野の姫君は、何度も彼女に声を掛けようとした。
しかし、内向的すぎる三芳野の姫君には、ついにその一言が口に出せないのだった。
客人たちの間では、次の演奏会でやる曲についての話題で盛り上がり、
蛍の方は、人びとの輪のなかで輝く二条の方を見つめていた。
細い上向きの鼻と、頬のえくぼ、丸みを帯びた輪郭の顔が、いたずら好きの子どものような表情をつくっている。
年齢は四十も近いのに、肌は白くはりに満ちていて、長くのばしたつや髪は頭を動かすたびに翠色のきらめきを放った。
じぶんを見つめる誰かの視線が、客間の向こうの奥から届くのを感じて、
それに目配せして応じると、最後に蛍の方に笑顔を見せた。
「姫様、退屈なさっておいででしょうか?」
蛍の方の後ろで、若い男性の声がした。
「どうも馴染みのない家というのは、人を退屈にしてしまうものです」
蛍の方は、聞き覚えのある、その清らかな声におどろいて、背ろを振り返った