24-6.つよい意志
翌日、朝食を運ぶために井筒の姫君が現れて、二人の目が合ったとき、彼女はひどく動揺して、食器と箸が何度もぶつかって音を立てた。
蛍の方は、近づいて手を取ると、目を伏せる相手に向かって云った。
「お願い、わたしの方を見て」
見つめる目の睫毛が涙に濡れている。
蛍の方は、言葉を継いだ。
「誰も貴女を責めていません。大丈夫です」
優しく抱きしめると、頭からつま先まで震えるのが伝わってきて、
――なんてことでしょう、と思わずつぶやいた。
この言葉が突いて出たのは、苦痛のせいでも、非難のせいでも、不快感のせいでもなく、むしろ、どこかで幸福感を得た余裕から生じていることに気が付いた。
自分のことを間違いなく愛してくれている可愛い女性を、この胸に抱いているのを実感すると、自分勝手で、奇妙な満足を身と心とに覚えていた。
子どもを亡くした母猫が、身寄りのない子猫を見つけて育て上げるみたいな感覚を、井筒の姫君に対して持った。
確実な愛情、裏切るはずのない関係――
別の恋では決して得られなかった安心感を知ることで、飢えた心の全てが感謝していた。
そして胸の奥底では、彼女のことを憐れんだ。
青ざめて、涙に暮れて、自信を失くし、それでも愛に焦がれる目をして相手を眺めては、人の心の複雑さや分かりえなさに思い至った。
「大丈夫、落ち着いて。一度お話しましょう」
従者の男性たちは、おかしな様子を察して、部屋の中に入ろうとしたところを引き返した。
蛍の方は、相手の手を強く握った。
いじらしい働き者の手だ。
二人の生活を守るために白く繊細になった手を温めながら、ごく優しく、言葉を選んで、お互いの気持ちを再確認した。
もしかしたら同じような友人には戻れないかも知れないけれど、世間の噂話にならないように、以前と変わらない体裁を保つことにしよう。
最も親しい友人として一緒に暮らし、あちこち出掛けたり、物語を聞かせ合ったりして、いつも通りの日々を過ごそう。
そのうち、きっとお互いにとっての答えが出るはずだから、それまでは二人でいよう。
蛍の方の口振りは、誰かのように相手を都合良く説き伏せようとする感じがして、心の裡では自らを嘲笑わざるを得なかった。
語り終えたとき、井筒の姫君は率直に答えた。
「わたしは貴女の下女として生きることを誓います。これからもずっとです。もう出過ぎた真似はしませんから」
蛍の方は説得しようとしたが、相手は頑なに意見を譲らなかった。
――なんて意志のつよい娘なんだろう!
女主人が水を飲み終えると、井筒の姫君はお盆を運んで行き、言葉通りの振舞いをした。
相手が席を外してから、蛍の方は考えた。
――これが恋の力なのだろうか。
この日は長い散歩をした。
心は過去の痛みをぶり返すこともなく、苦しみに足が重くなることもなかった。
何かが胸の中で、鳥の歌声に似た調子でさえずっていた。
孤独な気分、道を失った気分、裏切られた気分がほとんどなくなった。
森は以前ほど人気のない感じがせず、しんとして虚ろな雰囲気もしない。
桂川の漁師はいつもと変わらず、嬉しそうでも悲しそうでもなく、淡々と投網をしていた。
家に帰ったら、どんな表情で出迎えを受けるのだろうか。
しばらくの間、紛れもない故郷での新しくも穏やかな毎日が続けられた。
蛍の方は、自分が何にそんなにも悩んでいたのかを忘れ、人生の幸せについて思いを巡らせた。
彼女にとって恋は全てであり、在原中将は心の憧れそのものだった。
あまりに一つのことに夢中に過ぎて、向き合うべき問題を正しく理解しようとしていなかった。
井筒の姫君の純朴で恥じらいを含む期待に応えるうちに、蛍の方はそうした過去の事実を知った。
井筒の姫君の視線にも、頭にも、心にも、身体にも、もはや彼女以外のものは存在せずに、いつかのお酒に潰れた夜と同じように陶酔していた。
井筒の姫君は、寝ても覚めても彼女を思い、長年の心の空白を埋め合わせるみたいに、注目されることを望んだ。
それでも、こちらから何かを差し出そうとすると怯えた様子を見せて、口をもごもごさせながら逃げようとする。
まるで恋というものを水源から、自然そのものの口唇から直接飲んでいるかのような印象を受けた。
蛍の方は、二人は変わらなければならない、と思った。




