24-5.憧れと恋心
ある高名な僧侶によれば、理想や憧れは人を悟りから遠ざける忌むべき感情である。
ありもしない理想の姿と自分をひき比べて、絶望したり、嫉妬したり、現世への執着を強めるだけで、浅ましい行為にわたし達を駆り立てる。
井筒の姫君にとって、蛍の方はそのような人物なのだろうか。
前にも一度か二度、夜中に奇妙な感覚に襲われて、ちっとも寝つけないことがあった。
気持ちの良い姿勢を探して寝返りを打ってみたり、縁側の方に腰掛けて外を眺めてみたりした。
井筒の姫君を慰めたのは、銀砂を粉したような満天の星空だった。
大きな自然の中に一人で溶け合いながら、時間すらも止まったかのような心地がする。
柔らかな空気が辺りを包み込み、周囲から一切の音が消え去り、世界そのものがまるで寝入ったみたいだった。
言い様もない感傷が、心をざわつかせ、一方では落ち着き払った自分もいた。
背後から女性の寝言のような声が聞こえた。
その息を吐くような調子に、井筒の姫君はどきりとした。
昼間には聴くことのできない声には、無防備さや独特の艶めきがあって、いつもなら気にも止めないような自分のある心の動きに、反応せざるを得なかった。
今夜はいつまでも眠れない気がした。
時間が経つほどに頭はぼんやりとしてきて、おそらく疲れているだろうとは分かるものの、それが眠れそうな感じとは結びつかない。
感覚だけが鋭敏になって行った。
暗闇に白く浮かぶ足の間をすり抜ける衣擦れの音と、規則正しく繰り返される寝息が、耳について離れない。
女性は長くしっとりした黒髪がずっと背中のほうまで続いて、顔の辺りでは額をきれいに見せ、数本の髪の毛を口唇で挟んでいた。
手を枕に、顔と身体を左向きで横にして、深く気持ち良さように息をしている。
――なんてきれいな睫毛なんだろう、なんて可愛らしい爪なんだろう、なんて素敵な口元なんだろう。
井筒の姫君は、思わずつばを飲み込んだ。
あまりに大きな音がした気がして、彼女の目を覚ましはしないか、はっと身を逸らした。
眠りの姫君は、口元を少し歪めて、何か息をもらしたばかりだった。
体を前へ乗り出して、相手の顔をのぞき込むと、優しい表情があった。
幸せで、安らかな、もう何の音もしない可愛いらしさそのものである。
古くてごく小さな部屋にいるのは、じぶん達二人きり――
世の中には、もはやこの二人しかいないのではないかという錯覚すら感じた。
井筒の姫君は、音を立てずに膝を進め、相手のすぐ隣に位置を取った。
これほどに素敵なものを独り占めできている感動に胸が震えた。
鼻から出る温かな息が、手にかかりそうだ。
何か直視してはならないような、罪深い感覚が井筒の姫君をとらえた。
目の前の誘惑に考えを支配され、これまでに見たこともないような肌の美しさを知った。
彼女の心は叫び声をあげ、逃げることもできずに取り乱した。
欲望の要求する分け前は、初めはほんの少しのことだった。
髪の毛先を撫で、衣服の奥で香木の匂いと混じり合った香りを吸って、全身を隅々まで眺めていた。
あともう少しだけ、と考える例の願望が、井筒の姫君を突き動かした。
蛍の方の顔の近くに、小さな手が現れた。
井筒の姫君は、突然のことに驚いたが、それはほかでもない自分の手だった。
頬に少しだけ指が触れ、柔らかさに感動した。
気が付かないうちに、息が荒くなる。
相手の手に触れ、そっと撫でた。
蛍の方が、寝返りを打ち、仰向けになると、息が顔にかかった。
髪の一本が全て美しく、若い女性らしい甘く酸っぱいような匂いが鼻を突く。
井筒の姫君は、じぶんの髪を耳にかけると、相手に覆い被さるようになり、燃える目で食い入るように見つめた。
相手の顔にかかる黒髪をそっと払い、濡れた息を感じるほうへ導かれて行った。
この世でいちばん温かく、柔らかな、そして甘美で、罪深い味わい生命の感触が、だんだんと口唇に伝わった。
前屈みの姿勢を長く続けるために、腕は震え、首は硬くなった。
井筒の姫君は、そのまま暗闇で視線を向けると、その先には今まさにゆっくりと開きつつある大きな目があった。
怯えるでも、拒否するでもなければ、肯定も賛美もしない、ただ事実を映すだけの虚ろな目だった。




