24-4.春の訪れ
中納言行平からの手紙が届いてしばらくの間、蛍の方は深く考える様子だった。
夕食もたっぷり取ったし、よく眠ることもできた。
次の日も疲れはなく、緑の発き始めた深く静かな森の中をいつものように散歩して、桂川での毎日の仕事を眺めた。
井筒の姫君は、注意深く相手を観察していたので、上手く言い表せないが、微妙な心境の変化に気がついて、言葉をかけた。
「もしかして体調が少し優れませんか?」
「いえ、ちっとも。ここ最近でいちばん調子が良いくらいです」 と蛍の方は答えた。
大切な友人が、血の気の引くような腹の痛みに悩まされる様子もなかったので、井筒の姫君はひとまず安心した。
昼間にいつも通り身体をきれいに拭いたあとは、近所の知り合いからもらった卵をみんなで食べた。
井筒の姫君は、一日を通してひそかに注視するよう気を付けたけれども、相手の表情はとても安らかで、本来の優しさと愛らしさに満ちたものだった。
不安に取り憑かれた人物によく見られる一種の傾向によって、相手の振舞いに過敏になってしまう井筒の姫君は、そのたびに悲しげになって、何か役に立って手助けしてあげたい気持ちでいっぱいの様子だった。
それがかえって蛍の方の注意を惹いて、友人が落ち着かずに神経を尖らせているのを見ると、毬打か双六かでもして遊ぼうかと提案した。
井筒の姫君は、申し訳なさから真っ赤になって断った。
蛍の方は、それでも好きな遊びをいくつも並べ立てたので、
井筒の姫君も好奇心が頭をもたげ、相手が都から持ってきた装飾付きの蛤貝を使って、貝合せをすることにした。
蛍の方は、優美な箱から貝殻を取り出して、床の上に順番に並べると、装飾の主題となっている『竹取物語』の話を聞かせた。
井筒の姫君は、貝殻を取りつつ、相手の話に耳を傾けた。
蛍の方の柔らかな口調で、物語の内容に応じて的確に強弱を付けて話を進めたので、
井筒の姫君もつい夢中になってしまって、時おり言葉をさえぎって、少し質問をしたり、議論をしたりした。
開け放した御簾の先からは、新芽の香りをたっぷり含んだ冷ややかなそよ風に、従者の男性たちの笑い声や、近所の人びとの話声や、動物たちの鳴き声が入り混じり、春の訪れに伴う幸せを予感させる雰囲気である。
蛍の方が見つめる娘もまた、鳥たちと同様に胸を騒がせつつ、遊びとともに展開して行く物語を、きらきら光る目で追っていた。
こちらが言葉を投げかけてみると、井筒の姫君は人の心にまつわる生来の繊細さを以て応えた。
思いが先立って、言葉の追いつかないところがあり、やや曖昧になりもしたけれども、彼女らしい表現があった。
――もしもわたしが男性だったなら、彼女に恋をしていたんだろうか。
そんな疑問が蛍の方の頭をよぎった。
すでに井筒の姫君のうちに感じ取っていた女性としての愛らしさや可憐さが、今日の温かく穏やかな午後にあっては、素敵に心地良かった。
井筒の姫君もまた、目の前にいる女性の優雅な魅力をよく知っているはずなのに、また新たにその素晴らしさに気付かされて、話を目で聴くような感じになった。
熱烈な視線を向けられるほどに、蛍の方は思った。
――もしあの色好みで移り気な例の貴公子が、井筒の姫君と同じ誠実さと優しさを内面に秘めていたなら、あのような別れ方をすることはなかったかも知れない。『竹取物語』に登場する男性たちは、嘘言をつくけれど、身を捧げもするというのに。
この平和な一日が終って夜が来ると、蛍の方は、人の心に関するないものねだりに浸りながら、うたた寝をした。
夕飯は、従者の男性が仕込んでおいた漬物と、甘めに味付けをした鮒の煮物を食べた。
つい箸が進んでしまって、全員が満腹感の後にやってくる幸せな眠気に襲われた。
ここ最近は、心が疲れるようなことはほとんどなく、身体を激しく動かしもしなかったので、眠りは浅く、たくさんの夢を見たような気がした。




