23-7.驚きの妻問い
蛍の方は、真夜中にふと目を覚ました。
従者の男性たちの静かな寝息が、隣室から聴こえる。
何となく胸がどきどきして、もう眠れない感じがした。
燭台に火をつけ、御簾を上げると、夜を眺めた。
自分の変化を実感するとともに、無駄な期待に苦しめられて、心が重くなった。
在原中将は、ずいぶん遠くの場所にいるはずなのに、すぐにでも会いたくて、焦燥感に体の内側が燃えるような気がする。
病み上がりの弱った身体に、頭だけが熱くなる。
神経は抑えがたくも虚しい願望に痛めつけられるので、この実現しえない幸福を待ち続ける夜の孤独に耐えかねて、気が付くと眠りに落ちている瞬間が訪れるまで、とりあえず過ごすことにした。
家の中からも、目の前の大通りからも、静かな夜闇が広がるばかりで、音が消えた。
蛍の方はずっと庭に向かって肘をついたまま、景色がほとんど変わらないことだけを理解しつつ、ぼんやり時間を費やした。
突然、家の扉に人の手が触れた気がした。
蛍の方は、飛び上がるみたいに振り返った。
驚きの余り声は出なかった。
扉がゆっくり開くと、その奥から一人の女性が頭を薄い色の布で覆い、緊張と恐怖に怯える様子で入ってきた。
「井筒の姫君?」
蛍の方が、そう小さな声で呼びかけると、全身で驚きを表し、前に進むことも、帰ることもできずに、周囲をひらすら見まわした。
蛍の方は、続けて話しかけた。
「いかがされましたか、こちらにいらっしゃらないのですか」
井筒の姫君は、ためらうような態度を示したのち、上げ床の段差につまづきそうになりながら、こちらに近づいてきた。
「何か悲しいことがあったのですか?」 と蛍の方は訊ねた。
暗がりの中でも、目許が少し赤く腫れているのに気が付いた。
井筒の姫君は、簡潔に答えた。
「いえ、大したことはないのです。大したことは」
「何があったんです? 夕食会はつまらなかったですか」
「そんなことは決して!」
井筒の姫君は、声をひそめながらも、語気を強めた。
それから沈黙があって続けた。
「少し寂しくなってしまったのです、勝手なことに……」
蛍の方は動揺し、少し焦れったくなって言葉を継ぐように促した。
井筒の姫君は、はぐらかしつつ本心を話し始めた。
せっかく憧れの女性に再会できたというのに、話すほどに蛍の方の変わらない優しさと、素晴らしい成長ぶりを見せつけられて、以前よりもかえって孤独を感じるようになったのである。
それから再び泣き出して、この土地で、身寄りも、後ろ盾も、財産もなく、一人きりでどう過ごして行けば良いのか分からなくなったと聞かせた。
話し進めるほどに小さくなっていく憐れな姫君の姿を見て、蛍の方は他人事とは思えないような感情に突き動かされて、胸を打ち定めると申し出た。
「わたしと一緒に暮らしませんか。待遇はできる限りきちんと致します。わたし達はどちらも独り身なのですから」
井筒の姫君は、突然の提案に初めは怯えたような表情を浮かべたけれども、やがて涙を拭いて、目を輝かせて言った。
「ぜひ、そうしたいです」
「ただ暮らしは裕福ではありませんよ。家事もわたし達でこなさなければなりません」
井筒の姫君は、不安に駆られたらしく小さく云った。
「あまり自信はありませんが、いつも一人でこなしているし、大丈夫だと思います」
「なら十分でしょうね」 と蛍の方は告げた。
「けれども、世間からどう思われるでしょうか?」 と井筒の姫君は云った。
「姉妹でもない女性が二人で生活をするなんて、あまり普通ではない気がします」
井筒の姫君は、夜の暗闇に感謝した。
自分の顔がひどく熱くなるのを感じたし、態度や表情もおかしいはずだ。
「その程度あまり構わないのではありませんか」 と蛍の方は云った。
「長岡で見知った人びとなら、きっと事情を分かって下さるでしょうし、関係のない相手なら気にする必要もないでしょう。ほとんどの世評なんて、あってないようなものですから」
知らずしらずこれほどにも自然かつ大胆に物事を考えるようになったのだと、蛍の方はじぶんの変化を冷静に見つめた。
井筒の姫君は、びっくりして言葉を繰り返した。
「"普通"でなくても構わないのでしょうか」
「ええ、ちっとも。わたし達が楽しければ良いと思いますよ」
井筒の姫君は、頭を悩ませる様子だったが、しばらくして本心に従うと決めたらしく言った。
「精一杯やってみます」
「良かった」 と蛍の方は、笑顔で応じた。
「仕事は料理、洗濯、掃除――あとはなんでしょうか。あまり多くはありませんし、ゆっくり過ごしましょう。いつから来られますか?」
井筒の姫君は、思い切って口にした。
「できれば明日からにでも。すぐに支度をして参ります」
蛍の方は、明日ですか、とつぶやきながら、思慮を巡らせた。
やがて、早いほうが良いとの結論に至って、提案を受け入れた。
荷物の整理のために、従者の男性たちを遣らせようかと訊いたところ、それは余りにご迷惑だとして井筒の姫君は断った。
歓びに表情を明るくして、井筒の姫君はきっぱりと言った。
「明日、昼になる前までには、必ずまた訪います」
井筒の姫君は、そう言い残すと、急いで家を出て行った。




