23-6.夕食会の終わりに
外には、蛍の方のほか誰もいない。
風向きが変わったので、日中の寒さは和らいだ。
暖かく過ごしやすいのは、冬の終わりを感じさせる夜ならではのことで、
空には満天の星が輝き、まるでこの森の中に一足早く訪れた春の気配を勢いづけるみたいだった。
道の先は湿り気を含んで、足裏に伝わる冷たさがあり、篝火の熱い輝きとの感覚の対比をつくっている。
蛍の方は、不安や怯えを感じると、いつも逃げてしまう自分が嫌になった。
苦悶に対する予感が、繊細な性格の彼女にとっては例の感情そのものよりも耐えがたかった。
忍び寄る予感と現実との間に引き裂かれ、二度と癒えないかも知れない心の傷を負うことを極度に怖れた。
もともと自分は弱い人間なのだ、と蛍の方は理解していた。
期待が裏切られること、予想もしない不運が降りかかること、正体のつかめない傷を負うこと――
そうしたものに直面するたびに、彼女は治まることのない懊悩を、何年にもわたって抱え続けるのが怖かった。
逃げてしまうからこそ自分は努力できずに、弱さを克服できないのだと知っていた。
一つのことをやり遂げる力がないから、恋愛にも身を投じることができない。
恋を成就させるには、大いに苦しむ必要があるのだ。
蛍の方は、自らの心を慰めるために『万葉集』をよく開いて読んだ。
数多くの恋の和歌が採られているけれども、幸福をうたったものは、決して多くはない。
かなわない恋、愛する人との別れ、連れない相手への恨みつらみ――
そうした和歌が古来、人びとの心を和らげ、愛唱されてきたのだった。
蛍の方は、読むほどに辛くなって行く自分がいて、何をしたいのか分からなくなることが、少なからずあった。
過去の恐怖に向き合うのは、実際のところ、ほとんどの人間が避けようとする道である。
自分の愛しているのと同じように相手から愛してもらえない辛さをこえるには、自らを愛する心でこれを支えなければならない。
蛍の方は、気持ち良い夜の空気を深く吸った。
冷たい土の匂いを含む大気に、小さな胸がいっぱいに満たされ、遠くの木々のざわめきに、ふとした記憶がよみがり思った。
――在原中将と再会した二条邸での夜も、わたしは一人で逃げ出してしまったんだった。
蛍の方は、似たような場面と状況の繰り返しの中で、変化を望んだ。
絶望に陶酔し、愛する人の顔を眺めるみたいに見入りながら、我を忘れ、敗者の感傷に浸っていた蛍の方だったけれども、
さまざまな立場と年齢と過去を持った友人たちと交流するうちに、少しずつ正しい理想というものを知り、各々の生き方の持つ魅力の輝きが、魂に強い意志を実行させるための活力を与えた。
たとえ弱い心を持っていたとしても、前に進もうとする意志を示し続けることの大切さを知った。
蛍の方の持つ強い意志が、精神の尊いきらめきとして人びとを惹きつけるように、友人たちの長所が彼女を変わるべく導いた。
蛍の方は、来た道を引き返すと、また郡司の家の中に入って行った。
変わろうという意志によって、蛍の方の心は少し明るく照らされ、自分を信じてみようとする決心は、過去の弱みに立ち向かう勇気を与えた。
蛍の方が逃げ出すたびに、在原中将が迎えに来てくれたことは、ついに一度もないのかも知れない。
それでも、彼女は前に進むことによって恨みや後悔を捨て去ろうと決意した。
客間に再び姿を見せたとき、蛍の方は自然な笑顔でいた。
井筒の姫君は、そのまぶしさに目が眩み、蛍の方ならではの感性から伝わる魅力によって、いつの間にか夢中にさせられた。
蛍の方は、今までにない華やかさで、お喋りを通じて社交というものを体現していた。
はっとするような機知や、得も言われない品位を、繊細かつ的確な心遣いによって生み出した。
女性たちは、蛍の方の周りに座ったまま、興味たっぷりの様子で聴き入り、怪しげな噂話や、よこしまな恋愛沙汰とは関係のない話題で、交流を深めた。
隣室で聴き耳を立てていた郡司の男性も、蛍の方が一度入り口を出て戻ってきてから、夕食会の雰囲気が大きく変わったことに驚かされた。
蛍の方の従者は、喜びを抑えながら、同好の士を得た感激のこもる友情に満ちた声で、周囲の人びとに言った。
「わたし達の女主人は、あのように優れた方なのです!」
それから再びあちこちで会話が始まったが、その盛り上がりは一見しては大人しいものだった。
うらぶれた長岡の郊外にあって、家中が控え目な賑わい包まれているのは、主賓の性格に由来する。
蛍の方らしい慎しみと繊細さを印象として与えた夕食会は、客人たちの心に不思議な満足感を残した。
酒宴のあとに付き物の倦怠感や寂しさのようなものは感じらない。
穏やかな楽しみを胸に人びとは、寝所に就くことができた。
蛍の方もまた、もしかしたら自分はとても幸せ者なのではないかと、甘い感情を確かめながら、眠りに落ちて行った。




