23-4.芥川の恋と鬼
在原中将の過去についてほとんど把握していないという事実を、蛍の方は改めて思い知らされた。
恋人を鬼に食べさせるとは、何だか実際にありそうな話である気がする。
部屋にいる女性たちのほとんどが、賛同しているところを見ると、かなりよく知られた噂話らしい。
もともと引っ込み思案で、人との交流を上手としなかった蛍の方であるが、
父親を失ってからは、いっそう閉じこもりがちになって、世間との繋がりを謝絶したまま月日を過ごした。
ただ時間を経過するだけで、世評に疎く、成熟に従って身に着けるべき社交術や情勢を知らずに、大人になってしまった。
世の中にとっては、たちまち過ぎていく数年という時間は、年若い女性には重い意味がある。
蛍の方は、この場で何の話題が取り上げられているのか、少しも理解できなかったけれども、問い返すのは、盛り上がりに水を差すような気がして、つい避けてしまった。
あるいは、本心としては、在原中将について知らない秘密があるのを認めること自体に、思いがけない矜持が働いたのだろうか。
蛍の方は、「ご安心下さい、わたしは生きております」 と冗談めかして述べるに留めた。
全員の顔色を窺うと、ひとまず穏当な意見を言うのに成功したらしい。
安心感とともに何かの好機を逃した後悔を感じた。
ざわめきの中、一座の後ろの方で、不安気な表情で話を聞く女性が目に入った。
蛍の方の姿を誰よりも熱心に見つめながらも、この場の雰囲気にどこか落ち着かないようで、手指の動きや目の色に如実に現れた。
彼女は誰よりも正直かつ控え目に、話題へついて行けていないことを全身で示している。
蛍の方は、視線が合うと、井筒の姫君が目を逸らすよりも先に口を開いた。
「もしかしたら在原中将と鬼について、ご存知ない方もいらっしゃるかも知れません。改めてみんなで話をしましょうよ」
郡司の娘が言った。
「実はわたし、よく知らないのよね。みなさんの話の腰を折ってしまうと思って黙っていました。詳しく知りたいものです」
きっぱりした物言いを不愉快に思う人はいなかった。
あとから、この話題を切り出した娘が、全員に向かって話し始めた。
かつて在原中将は、清和帝の皇后と道ならない恋をしていた。
ある夜、止まれない想いを叶えるために、彼女を都から連れ出したのだ。
夜は更け、雷まで鳴り、雨もひどく降ってきたので、
摂津の国の近く芥川というところの小屋に女性を隠し、在原中将は弓を構えて周囲を見張ることにした。
彼女は、「遠くの方で何か雨露が光るのが見えます」 と言ったのだが、
雷の音にかき消されて、男の耳には届かなかった。
だんだん夜が明けて、在原中将が小屋の中を覗くと、連れてきたはずの女性の姿はない。
男は自分たちの行為が天の神々の怒りを買い、女性は鬼に食べられてしまったと嘆いて、涙を落としたのだとか。
夕食会の女性たちのお喋りは白熱した。
噂話にありがちなことだが、結末は意外にもさっぱりしたものである。
あっけないがゆえに、人びとの想像をかき立て、議論の的となり、いろいろ尾ひれがつけられて行くのだろう。
各々が持論を述べ、いちばん最もらしい説は何かを吟味した。
根拠のない作り話であるという人もいれば、当時の政情を踏まえた何かしらの事実が含まれているはずだと主張する人もいた。
蛍の方はといえば、顔色に出さないようにしつつ、動揺を抑えた。
在原中将が、ほとんど流罪に等しい東国への旅に出たわけをはっきり理解した。
二条の方との恋が、これほどまでに危険で、燃え上がるようなものだったとは知らず、恐怖に震えた。
なぜ二人は平然と親しくし続けることができるのだろうか?
成熟した大人の友情だとでも言うのだろうか?
それとも、実際のところ、二人はまだ誰も気が付かないところで、愛をささやき合っているのだろうか?
蛍の方は、これほど重大な過去を知らないままでいた自分の見識の狭さを冷笑し、隠し事ばかりの在原中将の不誠実な振舞いに新鮮な怒りが湧き上がるのを感じた。
滅多にしないような生々しい想像が、頭の中を駆けめぐり、不快になるとともに顔が紅潮して行く感じがした。
部屋の後ろの方から、じっくり眺めていた井筒の姫君だけが、その異変を見て取った。
今日の蛍の姫君の態度は、普通ではないような気がして、心に不安が押し寄せた。
やはり在原中将について触れると、冷静さを失ってしまうのだ。
蛍の姫君をあれほどに苦しめてしまう男性とは、一体どんな関係があって、何が両者を別れさせるきっかけになったのだろう。
井筒の姫君は、見ず知らずの男性に対する小さな嫉妬と憎しみを感じた。
自分の心の中に、こんなどろどろとした感情の種があるとは、初めて気が付いた。
一人の女性が、悪気のない賑やかな調子で訊いた。
「蛍の姫君は、都でこんなふうな何か危険な恋をしたのでしょうか?」
全員が期待と羨望のまなざしを向けた。
土間のほうで、聞き耳を立ていた郡司の男性は思った。
――なんて恥じらいのない質問なんだ。これだから女というのは、愚かでこまる!
蛍の方は、言葉を引き受けて答えた。
「いえ、そんなことは少しもありませんでした。都というのは、わたし達が思うほどに、愉快なことがたくさん起きる場所ではないのですよ」
女性たちは、少しがっかりしながらも、都の事情に詳しくなった気がして嬉しがった。
蛍の方の言葉は、彼女らしくなくきっぱり言い捨てるような調子があった。




