3-2.感性と知性
源左大臣融が、友人たちとともに、東国へ行く機会を得たのは、
在原中将の恋人が、時の帝の皇后となってから、しばらくしてのことだった。
道ならぬ恋に身を焼かれ、都での居場所をなくした在原中将は、
あてもなく東へと旅立ち、数年間の放浪生活を続けたのだが、ほとんど流罪に近いようなものだった。
旅は本来、自らの罪と向き合い、恋の病熱から頭を冷やすために始められた。
しかし、都に残してきた女性たちからの止むことのない恋文と、行く先々での求婚に追い立てられ、在原中将の苦悩は増すばかりだったという。
彼らは、これという目的もなしに陸奥の国にまでたどり着いた。
源融は以前、陸奥の国守として塩釜の辺りに知遇を得ており、ひとまずは宿を求めることにした。
ところが、都での色恋沙汰は、この地にも届いていたのだろうか――
貴人に対する待遇が及ばないとして体よく断られてしまった。
もっとも、東下りの旅に同行していた源融と紀有常もまた、このころ、都での政治的な謀略に巻き込まれおり、その影響も考慮されるべきだった。
彼らは、まさに律令では裁かれることのない私的な罪人のような立場にあったのだ。
数減ない乾飯を口にしながら、彼らは塩釜の風景を題材に悲しげな和歌ばかりを創って、じぶん達を慰めることにした。
そんな憐れな旅人たちを、おもしろがり、かつ同情したのが、陸奥の方だった。
陸奥の方は、屋敷を宿として貸すうちに、誰の目にも分かりやすく在原中将に恋をした。
油断ならない夜が続いて、在原中将は昼間も眠たげに過ごすことが多くなった。
それでも、陸奥の方は切実で、男があまりに連れないので、
ある日、友人たちを目の前にして、彼のことを非難した。
「こんなひどいお預けを食らう位なら、いっそ蚕にでも生まれてくるべきだったわ。どうせ短い運命の糸なんですもの」
――なんて傲慢で粗暴な娘なのだ!
源融は彼女のことが気に入った。
また、朝が来るたび、陸奥の方はこうも言った。
「夜が明けたなら、あの憎たらしい鶏鳥を池の中にでもぶち込んでしまいましょう。告げるべきは朝ではないのだと教えてやるために」
そういった言動の一つひとつが、在原中将をたしかに恐怖させていった。
藤原摂政が都の政局を安定させ、また間もなくして清和の帝が病いに倒れられると、三人の客人は、この長い放浪の日々に終わりが来たことを理解した。
帰り際、在原中将はさすがに皮肉でも遺したくなったのか、つい口にしてはならなかったことを云った。
「陸奥の姫君、栗原の地は美しい松林がある場所として都でも知られております。もし、その松が人に見えるような、素晴らしい感性をお持ちならば、都への土産にさあ、というべきところなのですが」
在原中将は、あなたはいささか常識に欠けていると伝えたかったのだ。
ところが、陸奥の方はたいへん喜んで、
「やはりあの方はわたしを想っているらしい!」 とあちこちに言い散らし、
今では都の辺境で、源左大臣の最も親しい友人として、自らの願いが叶えられる機会を虎視眈々と狙い続けているのだった。
蛍の方は、そんな陸奥の姫君を、自身の最も尊敬すべき女性のひとりに数え上げることにした。
――もし彼女の勇気のほんの少しでもあれば、わたしはあんなにも苦悩をしなくても済んだのに。
蛍の方の純心さに、和琴の方は驚嘆し、
――これはまた手ごわい姫君、と思った。
二条邸の夕食会に参加する人びとを、冷静に観察している和琴の方はといえば、
文化人として都でも名の知られた紀雅楽頭有常の娘で、和歌の道に明るく、また女性としてはめずらしく漢籍を読みこなす才を得ていた。
父親の鷹揚とした性格に比べて、かなりのしっかりもので、あらゆる物事にほとんどの場合、明確な意見を持っていた。
古来から武芸によって朝廷に仕えてきた紀氏の家風は、
父親の有常よりも和琴の方のほうに強く受け継がれていたと云って良い。
彼女に言わせれば、陸奥の方のような女性は、
――いつもそばにいてくれるわんちゃんみたいな可愛いさ、なのだった。
筑紫や松原の商人を通じて、都に大陸の書物が入ってくれば、真っ先にそれらを購い求めるのが、和琴の方であり、
先日も唐の艶色小説『遊仙窟』を手に入れると、見るべき作品であると評して、読書会を開き、多くの姫君たちを赤面させた。
文章の意味は分からずとも、おもしろおかしく彼女の話を聴いてくれる陸奥の方とは、なんだかんだ親しい間柄なのである。
和琴の方の本心は、時として世知に長けた二条の方よりも謎で、
心ない人びとは、彼女の頭の中は、唐の詩人と賢聖の言葉でいっぱいで、恋をなさるだけの余分は残されていないのだという。
そうした意見に対して陸奥の方は言った。
「世の中の男たちは、どうしてこうも馬鹿で無神経なのかしら。あの子が在原中将とお話になっているところを見てみなさい。まるで褒められなれてない幼さな女の子みたいに、恥ずかしそうに愛想笑いをするだけで、ちっともお近づきになろうとしないのですから」
もちろん、二条の方にいわせれば、どちらもまだまだ可愛い幼さな姫様にすぎないのだけれど、和琴の方が例の貴公子にそうとう熱心でおられるのは、間違いのないことのようだった。
「あら、そういえば、」 と二条の方が云った。
「惟喬親王と恬子内親王はおいでにならないのかしら?」
「基経卿とのお話し合いが長引いておられるようです」 と伊勢の更衣は続けた。
「恬子内親王に仕えておられる和琴の方は、実際のところ、気が気でないでしょう」
しばらくして文徳帝の子女は到着した。
恬子内親王は、細みの美しい女性で、背がずいぶんと高く見えた。
紀氏を母親として、目も睫毛も黒く、髪も長く輝いていた。
――これは急ぎ準備をしなければ、と紀雅楽頭有常は思った。
恬子内親王の清らかな声は都でも有名で、今晩の演奏会は"謡い物"にするべきだと判断したのだ。
惟喬親王は、危うい美貌をお持ちの人物で、胸が薄く、顔色の優れない様子で、疲労が目に見えていた。
しかし、親王は無類の音楽好きで、大陸から流入したばかりの笙を吹きこなし、また失われつつある筝曲の数少ない伝承者でもあった。
惟喬親王にとって二条邸での夕食会に参加することは、どんな無理を押してでも叶えたい嬉しみの一つなのだ。
夕食の準備が整うと、二条の方は、蛍の方の腕を取り、他の客人たちを先に行かせた。
そして二人で客間に最後まで残って、いざ歩き出すとき、二条の方は、茶色い瞳孔の目でちらりと流し目をおくった。
その目つきには麗しい女性が何かしらの友人とはじめて交渉を持つ場合の一般的な興味の示し方と比べて、より複雑な女性としての思惑や探究心が表れているような気が蛍の方にはした。