23-3.姫君たちの期待
夕闇の中、蛍の方が出発しようとしたとき、従者が人気のない隣家を指した。
その邸宅は、在原中将の母君の住まったところで、いまや面影を偲ばせるものは何一つない。
蛍の方は、あの上品で美しい女性に見守られて育った気がした。
自分ではどうにもならない不遇の中で生きる方法を、彼女は慎しみを通じて伝えようとしていたのだろうか。
蛍の方は、邸宅の前で手を合わせて思った。
――申し訳ありません。わたしはまだ諦められないようなのです。運命と戦い抜くための覚悟を持ちたいと思います。
大路を北へ進むと、左右には草葉の茂げる雑多な家の列が延々と続くうちに、ついに旧都の区画を抜けた。
目の前は所々に木立のある広い平野で、遠くの方になだらかな丘が連なっている。
小さな集落の中に入って行くと、蛍の方は約束のある住居を見つけ、魅入られた。
古い家で、よく手入れが行き届いており、隣には畑も作られていた。
森の中にひっそり建てられた興趣ある家という感じで、蛍の方の好みによく合った。
主人の男性らしき人物が出迎えた。
「貴女が蛍の姫君ですね。言わずとも分かります、その洗練された衣服や化粧づくりを見ればすぐに。長岡ではお目にかかることのできない高貴さを感じました。さあ、こちらに」
あまりに恭しい態度には、皮肉と怖れが同居するのを感じさせた。
土間の奥には、床上げのされた広い一室があり、すでに五、六人の年若い女性が到着していた。
二人の召使いが忙しそうに食事の支度をして、庭の方からは鶏鳥の鳴く声がした。
蛍の方は、どこか懐かしさのようなものを感じて、気持ちが少し安らいだ。
「騒がしくて申し訳ありません」 と郡司の男性は云った。
「このようなひなびた場所ではありますが、どうかお愉しみ頂きたいと思います」
そして蛍の方の到着を告げると、女性たちは期待を込めた視線を向けた。
蛍の方は、慣れない喝采を浴びながら、主賓の席に着いた。
目の前の女性たちは、彼女の仕草の全てに注目している。
蛍の方は、何を話せば良いのか分からない。
相手は何か素晴らしい言葉が発せられるのを、今かいまかと待ちわびている。
このままでは期待がどんどん高まって、ひどい結末を迎えることが想像できる。
ここは西京の女君のような、慇懃さと優しさとを一緒に伝える挨拶をしなければ、と考えて、口を開いた。
「ありがとう、みなさん」 声は震えなくて済んだ。
「今日は全員で楽しくお喋りをして、素敵な思い出にしましょう」
一同は、目の前にいる美しい女性が、こんなにも親切な言葉をかけてくれたことに感動した。
見慣れない高価な衣服に、どこか恐怖を感じていたのが、すっかり安心させられた。
それから軽い話しをして行くうちに、蛍の方は再び質問攻めにされた。
家中が賑やかさに包まれ、郡司の男性は、少しの嫉妬と苛立ちを覚えた。
自分が主催する宴会がこれほどの盛り上がりを見せたことはないし、娘にはうるさがられるのがつねだった。
次々と客人が到着するたびに、賑やかさは増すばかりだった。
一人の女性が、恥じらいとためらいを示しながら質問した。
「あの在原中将と親しくされていた、というのは、事実なのですか?」
予想はしていたのだが、ついに訊かれてしまった、と蛍の方は思った。
嘘言をつくわけにはいかないだろう。
けれども、どこまで話をするべきか。
下手なことを口にしては、騒ぎはひどくなってしまう。
当たり障りのない、これ以上の疑問を向けられないような解答をするべきだと考えて、蛍の方は言った。
「ええ、大変良くして頂きました」
客人たちの目は輝いた。
蛍の方は、相手の様子を窺いながら続けた。
「在原中将はあちこちに縁故があって、わたしもいくつかの会合に参加させてもらったのですよ。今日の夕食会を援助して下った惟喬親王の開いた祝宴にも、一緒に出向いたことがありました。ただ、実際のところは、それだけの関係なのです。在原中将とは父親同士に古い関係があって、それでお声がけを頂きました。何か面白いお話や、みなさんの期待に答えられるような出来事を紹介できなくて、残念に思います」
一同は、ややがっかりした様子を見せたものの、
結局は、「素敵!」 という言葉を述べるに至った。
どうやら余計な疑念を抱かせずに済んだらしい。
蛍の方は、続けて語った。
「都の社交界は、きらめきに満ちていました。わたしはいつも一杯いっぱいで、何かをする余裕なんてほとんどありませんでした」
話題を社交界のほうに向けることで、蛍の方は危機を脱したと考えた。
彼女の思わせぶりな物言いに、女性たちは関心を寄せ、あれこれ話をするようにせがんだ。
二条邸の夕食会、平安京への旅路、水無瀬の祝宴、春日野の成婚、絵巻の鑑賞会――
思い返すほどに、本当に華やか景色ばかりが浮かんで、自分がその場所にいたという事実が信じられないような気がした。
長岡の娘たちは、想像もつかない物語みたいな光景に胸を高鳴らせた。
熱中のあまり蛍の方の言葉を素直に受け入れ、自ら言葉を差し挟むようなことはしなかった。
蛍の方も、つい得意になってしまい、話し過ぎてしまったと感じた。
一度口をつぐむと、また別の娘が訊ねた。
「わたしはお話を聴いて、正直少し安心しました」
誰かが、それはまたどうしてか、と質問した。
「在原中将といえば、恋人を鬼に食べさせてしまったとの噂話がありますよね。蛍の姫君もしばらく姿が見えないとお聞きして、もしかしたら同じ結末を辿ってしまったのではないかと、みんなで話をしていたのです」
娘たちは、これに賛同した。




